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シンポジウム「時代に取り残された学校現場」パネルディスカッション

2023/04/23

中・高校教育施策の立て直しを考える」

パネルディスカッション

 中・高校とはそもそもどういう教育現場なのか

橋本五郎氏(以下、橋本)一体、中学校、高校の教育とは何だろう。小学校や大学とは違う。一つの階段に過ぎない。そのことが中途半端な、大学に行くための場所になっているのではないでしょうか。中学校、高校の教育というのは、全体の教育の中でどのような位置付けなのか、ということが大事なポイントではないでしょうか。

工藤先生から、小学校とも大学とも違う、中学校・高校の教育というのは一体何なんだというところからお話を願いたいと思います。

工藤勇一氏(以下、工藤):中学で長く勤めてきました。中学と高校を違ったものとしては受け止めていません。大学についても、教育に携わってきた者として、そんなに変化がありません。むしろ、日本の大学制度が理想的ではないと言ったらいいのかもしれません。

四十数年前に大学を卒業した僕の時代からすれば、当時の大学は呑気な時代だったと思います。遊んでいても卒業できる、今とは違うモラトリアムの時代でした。経済が右肩上がりだったから、社会に出る前に、遊びも含めて視野を広めるという学生生活でした。当時は、社会に出たいという気持ちがあったと思います。

一方、今の子供たちは「社会に出たくない」「大人が素敵ではない」と思っているのではないでしょうか。学校という場所は「世の中はまんざらでもなく、大人って素敵だな」と感じられる場所でなければいけません。しかし、そう感じさせる場所になっていません。大学も全く同じです。なぜ学びがあるのかというと、学びのために学びがあるのではなく、社会をどうしたいという意思を持っているのが大学ではないかと思います。

橋本:中学、高校はあくまでも独自な位置付けといいますか、大学へ行くためのプロセスの一部ではなく、このこと自体に意味があるということでしょうか。自分で物を考える大事な場であるという位置付けなのでしょうか。

工藤:そうです。中学を卒業してから働いてもいいと思います。特にITに強い子供たちなどは、高校に通わなかった子もたくさんいます。大学に通わなくても、はるかに優れた能力を持っている子もいます。日本は学校に通うことが義務になっていますが、そういう場所ではないのではないと思います。中学生であっても高校生であっても、そのまま社会に出たかったら出られる。そういう場所でなければいけないと思います。

橋本:漆先生、その点はどうですか。

漆紫穂子氏(以下、漆):私も工藤先生に賛成です。そもそも、小学校・中学校・高校・大学の「6・3・3・4」という切り分けを見直してもいいのではないかと思います。この切り分けを決めた時から、社会環境は大分変わっていますし、子供の発達段階も科学的に分析できるようになってきているので、子供たちの力によって、少し早く行く子もいれば、ゆっくり行く子がいてもいいのかもしれません。

現状の中高の役割を考えると、自分が大人になった時に社会とどう関わっていくのか、自分は何が得意なのか、今取り組んでいることが未来とどうつながっているのか、といったことを考える時期ではないでしょうか。

どうしても大学入試がボトルネックになっていると感じます。本来なら、中高時代にたくさん経験させてあげたいのに、切れ目がどうしても大学入試にあります。生徒を見ていても、課題解決学習の一環でNPOを作って具体的な活動を始めたところで受験勉強に入ってしまうため、やむを得ず中断してしまいます。これからは課題解決型、探求型の学習を取り入れていく時代になりますので、学んだことの出口や継続性をどうするのかという問題が出てくるのではないでしょうか。

いい大学いい企業へという出世構造の打破はあるか

橋本:安西先生、6・3・3・4制や入試がある限り、この問題は避けられないのでしょうか。制度自体を根本的に変えなければだめでしょうか。

安西祐一郎氏(以下、安西):中学と高校の決定的な違いは、中学は義務教育、高校は義務教育ではないところです。ところが、高校進学率は100%に近いので、実態としては義務教育化されています。さらに大学進学率も高く、短大を入れると進学率は55%程度、専門学校まで入れると80%程度になると思います。つまり高校というのは、社会にすぐ出るのではなく、上の方に行く場所になっています。

こうした構造の中で、社会の側で何を求めているかということに、一種の経済合理的に応えようとすると、どうしても偏差値で選び、いい大学に行く、あるいは、さらにいい企業に就職するという一直線のピラミッド型の出世構造になります。それに対して投資をする。だから「異次元の少子化対策」といって、子育て予算をいくら付けても、結局、塾などに通うためのお金に消えるのでないかという気がします。

変えていくためには、複線のキャリアパスを実現する社会を作っていかないと、一直線の川の流れは変えられません。川の流れを分流することが必要ではないでしょうか。あまりにも今、日本の社会が一つの川の流れだけに沿っていないと何か外れ物になってしまうような構造になっているところが課題ではないでしょうか。

それに対して、高等学校教育はむしろ加担しています。高校の先生がいけないというよりは、こうした社会構造ができてしまったことが原因ではないでしょうか。これを何とか打破しなければいけないとみています。

橋本:僕らの頃と違うのは起業家の登場です。東大法学部を卒業すれば起業家になれるという社会ではありません。昔よりは複線化というか、かなり許容されてきている感じはします。高校教育ではこうした歩み方に光を当てることも大事な教育ではないでしょうか。有名大学に合格して、有名企業に行くという人生だけではないということが、今の世の中の趨勢なんだという具合に。

安西:私がかつていた研究室では、大企業に行く学生はほとんどいません。自分でスタートアップ企業を起こすとか、ある程度小さな会社であっても、自分を生かしていける、自分が本当に働けるところへ行くという学生が増えています。今が分岐点ではないかという気がします。

生徒・学生が教員を評価するという間違い

橋本:当事者意識は何も生徒だけではなく、先生にも当てはまるでしょう。学校で当事者意識を持って、運営において実践するという意味もあります。私は保守的な考え方かもしれませんが、基礎的なもの、その時に学ぶべきものをきちんと踏まえられるかということになると、疑義があります。

大学でも行われていますが、学生に先生の評価をさせている。私は間違いだと思います。何も分かっていないとまでは言わないけれども、先生は生徒からの評価に戦々恐々として、それに甘くなっていくというか、評判を気にするというのが高校に浸透したらどうなるのだろうと危惧しています。時代遅れかなと思いながら先ほど聞いていたのですが、この点はいかがですか。

工藤:学生が先生を評価するというのは、まさに当事者意識がないということです。学生が評価すべきは自分です。日本がサービス提供型の社会になってしまったので、サービスの提供側を評価するという過ちを起こしているといえます。当事者意識を高めたいのなら、学校評価はどうすべきか。学校の教員は学校運営を自分たちで評価する。PTAはPTAの評価を自分たちでする。子供たちは子供たちで自分たちの評価をすると。誰もが当事者として学校運営に携わる仕組みをつくるのが正しいのであって。今は、人に期待ばかりしています。

日本の子供たちは「先生、これ習っていないです」と言います。アフリカの子供たちは、他国の支援でもらったiPad1個しか持っていないのに、20歳ぐらいになると、みんなプログラミングができるようになるそうです。なぜかというと、ハーバード大やマサチューセッツ工科大などの授業のうち半分は、インターネットのMOOCs(ムークス)という仕組みを使い、無料で見られるからだそうです。英語さえ学べていれば、世界中の優れた授業を自分で学べると思っている子供たちがいるのに、日本の子供たちは与えられ続けています。サービス提供型の仕組みをやっぱり根本から変えていくことが大切です。

教えないから落ちこぼれがでないという理屈

工藤:麹町中の時に始めたのは、数学を3年間教えないということです。数学の授業を一斉しないんです。それでも、なぜ数学ができるようになるかというと、数学という教科で教える内容は、何百年も昔の数学が体系化されているんですね。小学校からずっと体系化されている。だからつまずいたところに戻ればいいだけ。

また、基本的に問題解決型の学習なので、個別学習であろうが共同的に学ぼうが、分からない問題があれば、そこを解決するために、自分でアクションを取ればよい。調べたり、友達に聞いたり、先生に聞いたりするということです。そういう行動を取りやすいので、全く自由に学ばせています。今の横浜創英もそうです。教材も自由、学び方も自由。

今だと授業をYou Tuberがやっているのです。そういったものを見る子もいれば、AI型の教材を使う子もいます。そうすると、面白いことが起こるんです。落ちこぼれがまず出ない。自分のわからないところから始めればいいからです。教える授業をしていると、できる子もできない子も、みんなが待たなければいけない。できる子はもうならっているが、待たなければいけない。できない子は、もうついていけないから待っていなければいけないということが起こります。

しかし、この授業スタイルを取ると、子供たちの自分で解決能力が上がります。教える授業をしている時には、「先生の教え方が悪い」と文句を言っている子供たちが、教えない授業をすると、分からないことがあると先生を呼んで、「先生、ありがとう」と言うんです。

一方、国語は、原点がコミュニケーションです。情報をどう発信して、どう受信するか。これを原点とした国語にならなければいけないのに、現状では学問になってしまっています。日本の学習指導要領上の問題もありますが、教え方を変えていくことができれば、子供自身が選んでいろんな学びができるようになるのではないでしょうか。

英語なら、普通に文法を教えてくれる教室や、コミュニケーションを学ぶためにスピーキングとヒアリングを中心に学ぶ教室、さらにAI型の教材や動画などを駆使して自由に学ぶ教室があってもよい。授業はたとえ受け身であっても、自分が能動的に選ぶことができます。語学ではこれができます。

時代に合わせた教育制度の見直しが必要

工藤:理科と社会については、仮説を立てて検証する学問の自然科学や社会科学がベースにあります。学びのスタイルは数学などとは異なり、ディスカッションを重視していくことが大切です。例えば自然科学なら、なぜこの事象が起こったのかを、仮説を立てて実験観察で検証していく。社会科学なら、なぜ歴史で起きたのか、当時の社会背景などを調べながら、データに基づいて検証していくという手法になります。

今、教科ごとに教え方を研究しています。教科によって飛び級で学ぶような、学年を超えて一緒に勉強できるようにしたいとも考えています。例えば英検1級持った中学1年生が入学してきたら、英語を6年間学ぶ必要はありません。学習の時間を活用するために、子供が選べるような授業スタイル、教育システムを今、作っているところです。

橋本:なるほど。そうなると、入試制度とぶつかり合うわけでしょう。私に言わせれば、革新的な試みに対して、今の教育制度は十分に応えていない、むしろ阻害要因になっているのではないですか。

工藤:今の学習指導要領でこれをパズルのように組み合わせれば、何とかできそうです。これは中高一貫だからできます。今、大学との協定を結び始めていて、大学へ学びに行くと、それを学校の単位にできる仕組みを作ろうとしています。中学校、高校にいながらにして、大学の内容を学べるということです。教科によっては飛び級ができて、教科によっては留年ができる。その仕組みをつくると問題になるのが、学習指導要領や学校教育法の修業年限の問題です。問題はしっかりあぶり出さなければいけないと思います。「個に応じた指導」などと言いながら、結局は1年間、教室に黙って座っていれば次の学年に上がれるような仕組みをいまだに維持している日本の教育の問題点を変えなければいけないと思っています。

橋本:漆先生の報告を聞いて思ったのは、人が足りない、お金がない、だから何もできないという言い訳になっている点です。しかし、仕組みを変えれば、現有の教員の数でもできるということです。ただ、実行するには大変ではないですか。現場の教員もついていかなければいけないし、簡単にはいかない感じがします。

漆:私学は、生徒が来なければ学校はつぶれてしまいます。その危機感が共有できたということが、改革に踏み出せた要因の一つです。ただ、変革を唱えても最初は心をそろえることは難しい。しかし、学校内で1人でも2人でも味方を作って行動していくと、生徒が喜び、成長します。教員になる人は、やはり子供が好きで、子供の成長とともにありたいという価値観は共通しています。当初は疑問に感じていた教員も、生徒が喜んでいるなとか、こんなに成長したなというのが見えてくると、1人また2人と協力者が増えてきました。

工藤先生のお話をうかがい、そもそも日本の教育というのは、誰のためかという側面からも、一回、デザインし直す必要があると思いました。義務なら義務でもいいのです。義務であれば、それはこの良き国民を、良き社会人を育てるために最低限のことを学ばせる。そうであれば、最低限というのは何なんだろうというのを、大人の側が見極める責任があります。

工藤先生がなさっていることは、子供の大事な時間を無駄にさせない教育です。非認知能力に関する論文を読み、ある年齢ではないと身に付かないものがたくさんあることを知りました。もう学ぶ必要がないことに時間をかけさせるのは、申し訳ないことだと思います。

義務教育であれば、この国のあり方、未来の世の中はどうなるかという点について情報を収集し、それぞれの修了年限の間に何をどのような順番で、その子に合った教え方をどのように提供するのかを、デザインし直す必要があります。

海外では、教育を受けることは義務ではなく、権利という考え方もあります。オランダは200人集めれば学校が成立しますので、独自の学び方を実践してよいことになっています。費用は国が負担するので、私立も公立もありません。1人ひとりの子が幸せになり、社会が成り立つような学びの場が学校であるべきでしょう。

でも、工夫で乗り越えるには、ものすごいエネルギーが要りますし、能力も必要です。事例を作り共有することは大切ですが、全国津々浦々の公立学校でも一斉に変えるためには、制度の見直しが一番早いのではないかと思います。少子化の国なので、もう待ったなしの課題ではないでしょうか。

橋本:よく分かりました。発達段階に応じた中高の位置付けは、時代によって替わってきているでしょう。6・3・3・4制も見直さなければいけないだろうし、そもそも区分けがあるということ自体どうなのでしょうか。

安西:小、中、高でどのような力を身に付けていけばいいのか。人間形成の観点から見ると、一つは情動ですね。長所。やはりそれが健全に発達していくことは大事です。関連して、社会性、コミュニケーション能力も健全に発達していくことは大事です。そのうえで認知能力です。これは色々考えたり、推論をしたり、仮説を立てたりするうえで大切です。さらに、世界の色々な知識を吸収して、それを自分の言葉でもって表現できるようにすることです。順番から言うと、小学校、幼児教育では、どうしてもやっぱり情動と社会性ということが本当に大事だと思います。

<東日本大震災発生日時に合わせた午後2時46分に黙祷>

自己決定と多様性を受け入れる教育

安西:東日本大震災は2011年3月11日でしたが、1か月余り過ぎてから、思い立って、東京から車で被災地に行きました。たどり着いた所が石巻市立大川小学校でした。近くに橋がありまして、車の上の方に引っかかっていました。この小学校では、たくさんの子供や教職員が亡くなりました。助かった子供たちは、小学校の背後の山に駆け上ったほんの少数でした。亡くなった子供たちのためにも、生きていく子供たちのためにも、本当に学び、教育は大事なことだと実感しました。

話を戻しますと、小学校からは認知能力が入ってきます。それから中学で大事なところは、基礎的な知識です。これも基本です。英語や国語については、基礎となる言語の構造をしっかり身につけることが大事です。中学校ぐらいから高校にかけて、個性が芽生えて、個が確立していきます。思春期にあたりますが、入試に向けての教育で子供たちが刈り取られている感じがして、非常に残念な気がしています。高校では個の発達を助けながら、将来に向けての知識などを身に付けていくのは高校だとみています。

橋本:日本人で初めてノーベル賞を受賞した湯川秀樹さんの自伝の中に、大学に行かなくてもいいなどと父親に言われたが、数学の先生が「この子は数学ができる」と言って、父親に頼み込んだそうです。そうでなければノーベル賞はなかったという話ですが、先生が発見できるかどうかが大事だと思います。

安西:高校の先生は自分で何を学んでいけば、キャリアが積み上がるのかということをあまり見えていないのではないかと感じています。例えば、有名大学に何人合格させるのがいい先生だとかではなく、生徒たちの学びをどのように応援していくのか、そのスキルをどうやって身に付けているのかということを、生かしていってほしいと思います。

橋本:先生の再教育という言い方は悪いのですが、先生を磨くために今、中高の先生に対して何が行われているのですか。

工藤:学校経営とは、僕の考え方はトップダウンではありません。教員たちが当事者になって学校運営を進めていくことが大切です。基本的にはOJT(オン・ザ・ジョブ・トレーニング)でやっています。集中型の研修はほとんど行いません。

ただ、教員には「進学実績を上げたい」「これが優れた教員のスタイルだ」など価値観は様々です。それぞれの教員がたどってきた道を否定することはできませんが、現場の教員に学校を変える権限を与えると、学校が崩壊してしまいます。

では、学校をどう変えていくのか。「一番大事なものは何?」「学校教育は何のためにあるの?」ということを、本質的に一回、合意する必要があります。これさえ合意すれば、いつの間にか「知徳体が学校教育の目的だ」などと勘違いすることなく、先にある議論を置き去りにせずに済むと思います。

幼児の場合、社会性といえば、椅子の上に姿勢正しく座ることが日本の教育だなどと勘違いしていることがありますが、デンマークに行くと小学校の3、4年生でも、ごろごろ転がっているわけです。デンマークでは、自分が学びたいという意欲を継続させていくことを重視するのが小さい頃の教育だということが、共通の目的になっているから、それが許されるわけです。日本は「型」を大事にする教育、文化が長くあったので、ずれているわけです。

僕の場合は、「学校教育は何のため?」と言えば、「子供たちの可能性を可能な限り引き上げていく場所」ということです。やらされるのではなく、自己決定させることを中心にしましょう、ということです。

工藤:もう一つは、多様性を受け入れる子供たちにするということです。「みんな違っていい」と教育現場でよく言いますけど、美しい言葉ではなく、とても苦しい作業です。多様だということは、当然ぶつかり合いが起こる。自分の自由と他者の自由が成り立たない。これは、「感情、感性の対立」「価値観、考え方の対立」「利益損害の対立」の三つに分けられます。

人間はどうしても感情の対立になりやすい。感情的な対立になると、なかなか解決ができない。感情をコントロールして理性的に物事を考えようという発想です。

次に、価値観、考え方を、誰ひとり置き去りにしないような、対立を解決する方法あるかといったら、これもないわけです。価値観も考え方もみんな違うから。利害の対立については、例えば平和という最大の目標がありますけど、平和のためには感情をコントロールし、我慢して自分たちの価値観、考え方を変えなかったら、平和は合意できないとヨーロッパの方々が学んできたのです。長い歴史の中で学んできた市民教育と言われるものです。

工藤:教員には、「君たちのアイデアが、学校の最上位の目標を進めるアイデアであれば、基本的に全部ゴーサインだよ」と言ったんです。3年間でノーと言ったのは4回だけです。それぞれの部署が自律分散型で企画を出してくるのですが、最上位の目標に沿って新たな改善策が盛り込まれていれば、基本的には僕は何も言わず、ゴーサインを出しています。

でも、この目標に沿っていないアイデアなら、僕は絶対に「ノー」と言います。これは学校運営のスタイルです。逆に言えば、この最上位目標の同意は、日本社会や学校教育の世界では、一度もなされていないと思います。やはり日本社会が遅れていますし、だからいつまで経っても女性が活躍できない。弱者と言われる人たちが全然表に出られない社会が続いているのは、対話をして合意することや、何が一番大事なのかを議論することを小学校時代から教えていない学校教育に原因があります。簡単に心の教育で解決しようという乱暴な教育をしているということです。

橋本:工藤先生のお話を聞きながら、私はつくづく反省しています。依然として教育の一番大切なことは何か。基本的な徳目を教えることであるということです。福沢諭吉は「ひびのおしえ」で、自分の子どもたちに家族の約束や決まり事を半紙で書いて与えていました。社会で生活していく上で基本的なことがあるだろうということです。フランスには「ある人の自由は他の人の自由が始まるところにとどまる」ということわざがありますが、こうした徳目をきちんと教えることを基本になければいけないのではないかと思います。

漆先生はその点についていかがですか。女子教育は今、公立高校からなくなりつつあります。私の出身地の秋田でも女子校はもうほとんどありません。いくつか理由があって、一つは、競争させるためには男女一緒の方がいいという考え方があるでしょう。それから、男女で分けるというのはおかしいという現代的な要請もあります。その二つが背景にあるために、女子だけを対象にした教育が難しくなってきていて、ご苦労は相当おありではないかと思います。

漆:知徳体は大事なことですが、これは手段であって、「何のためなのか」という大目標を共有することが大事でしょう。

実際、うちの学校も改革して軌道に乗った時は、一番苦しい時でした。逆に、教員の気持ちがバラバラになってしまったのです。それぞれに自律分散型でやり過ぎて、こっちのプロジェクトは頑張っているけれど、向こうはやっていないのでは、という感じになり弊害が出ました。

その時、もう一回原点に立ち返りました。1人ひとりの教員がなぜ教員になったのか、どんな時に喜びを感じるのか。この学校はそもそも100年近く前に、何のために作られたのかという歴史もひもときました。トップダウンではなく、学校としての大きな目標と、1人ひとりの目標が一致するような形で、ミッション、ビジョン、バリューを作り、それに照らして、合うか合わないか判断することを大事にしました。工藤先生の学校と似ています。

その結果、高校入試をやめました。高校入試を行えば、高校から優秀な生徒が入学し、切磋琢磨するきっかけとなりますし、私学ですので、生徒が増えることで経済的なインパクトが大きいのも事実です。しかし、本校が中高一貫校で、考える力をつけるような教育を行う時に、途中から生徒を受け入れると、矛盾することもあります。今は何となく、みんな同じ方向に向かっていると感じています。

教員自身も、従来学んできたこととは違うことを、これから先は行わなければならないでしょう。工藤先生はOJTとおっしゃいましたが、一緒にやるしかなくて、子供たちの探求やデザイン思考の学習を一緒に学んでいくことにしています。

漆:女子教育については、共学化する学校も多いですし、女子の通える学校は、首都圏では数が多く、いすの数の方が人の数より多いんですね。経営的には苦しいというのが事実です。ダイバーシティーが求められる今、「なぜ女子だけの学校なのですか」とよく質問を受けます。しかし、私たちは、女子校を選べるということが多様性だと思っています。従来の女子校のよさと、今の日本だからこその女子校の必要性を確信しているので、女子校を貫いています。男女で発達段階の違う中、女子に特化した教育ができるため、男女別学の方が認知能力も非認知能力も伸びるということが言われてます。特に日本社会のように、男女の役割分担が刷り込まれる社会においては、女子だけであれば、リーダーも、理系のことも、力仕事も、全部自分たちでやらなければいけないので、避けようと思っていたことも、全部やることで自分の才能に気付ける。これが女子校の良さなんですね。

日本社会は、世界の先進国の中でも珍しいぐらいに女性の活躍の余地が残っている国です。その過渡期において、「はい」と手を挙げ、次の人たちのために頑張れる志と、裏付けとなるスキルを中学・高校時代にきちんと身に付けることが、女子に特化した教育の役目だと考えています。

実際に生徒たちも、そのように育っていきています。びっくりしたのは、生徒が男子校の生徒会に連絡をして、生理を教える出前授業を開いていることです。女性には生理があることを男子校の生徒が知らないと、将来働く時に支障が出るのではないかという問題意識から、男子校の高輪、本郷、芝、開成へ出向き、女子生徒が男子生徒に対し、「生理というのはこういうもので…」と生理用品を見せてレクチャーしています。男子生徒は「こんなものを足の間に挟んで生活しているんだ」「こんなに血が出るんだ」「じゃ、大変だね」と互いに共有するようになります。こうした取り組みを、子供たち自らが今できるようになってきています。

「右手の病気」とよく言うのですが、場がシーン…と静まっているのが耐えられなくて、つい手が挙がってしまう、こういう子を育てていきたいと考えています。それが今の日本の女子校のミッションだと思います。

橋本:なるほど。そこまで行っているんですか。男子校に説明に。

漆:最近よく「先生、私たちはやる気が十分です。先生はもうこの学校を辞めて、男子校に行ってください。自立した男子を育ててくれないと、私たちは未婚になります」と言われています。

橋本:これはまいったね。

再認識すべき歴史教育の重要性

漆:安西先生から歴史教育の大切さについて話がありました。世界史も日本史も、授業では、現代の手前の近代あたりでおしまいとなります。古代から順々にやってきて時間がなくなったから、というのが一応の理由ですが、そもそも、学校が現代を教えられないからだ、とも指摘されています。歴史をどう判断するのかということもあると思いますが、きちんとやってもらわないといけません。物の見方は様々で、国によっても様々あるということを教えること自体が生きた教材になると思いますが、なぜきちんと行われていないのでしょうか。        

安西:戦前は逆の傾向があり、振り子のような経過をたどっています。ただ、今の時代はもう、そういうわけにはいきません。歴史について様々な見方もあるし、見方や学び方を学ぶことが、これからの時代の社会科学を高校レベルで学ぶうえで大切だと思います。

橋本:歴史教育について工藤先生はいかがですか、

工藤:今はまだ従来の教え込む授業を行っていますが、2年後に新教育システムの導入を目指していて、社会科については現代から始めることを検討しています。例えば、現代のある事象に注目し、なぜ起こったのかといったことを各グループが調べ、それぞれ発表し合い、互いにディスカッションしながら原因を探っていくような授業スタイルです。

漆:国からも、近・現代史をきちんとやろうという方向性は出てきているので、今後改善されていくと考えています。ただ、大学入試をにらんだ時、私大の入試は記述式より穴埋め問題が多いので、授業は記憶型にならざるをえません。今は2本立てのようになっていますが、総合学習の方で色々な課題を考えるようにしています。そうすると、この課題を解くためには、統計も勉強しなければ、歴史も勉強しなければとなり、子供たちは自主的に学ぶようになります。それがモチベーションになって、各教科に展開していきます。教科を別々に学ぶのではなく、何か大きな目標のために、ある時期に英語ではこれを学び、社会ではこれを学ぶというような、教科横断型の融合を目指していきたいです。

例えば友人の子供が、スイスの小学校に入れた時、体育の授業では心拍計をつけていました。生物の授業にもなっているのです。また、タイムを計るため数学の授業にもなっていました。

橋本:私は歴史科学については、今、素材がいっぱいあると考えています。例えば、ロシアのウクライナ侵略にしても、色々な考え方があり得るわけです。プーチンにはプーチンの論理があるかもしれないし、「ひょっとしてあるかもしれない」ということを学ぶこと自体が、大事なことだと思います。元徴用工問題にしても、韓国には韓国の理屈があるだろうと。国際政治学者の高坂正堯は、国際政治において正義は一つではないと提案しました。様々な正義があるということです。正義の絡まり合いしのぎ合い、それが国際政治なんだと。教え方は何も一つの価値観、歴史観で教えるということではなく、様々な考え方があるから戦争になるわけですから、そのことを知ること自体も大事なことではないかと思います。

漆:「正義」の対義語は「もう一つの正義」だというのを聞いた時に、本当にそうだなと思いました。子供たちには、それを知っている人になってほしいと思います。

部活・教員・学校の位置づけと実態

橋本:先生が部活動を担当する問題もあります。これは大変ですよね。どのように対応されているんですか?

工藤:法的には全く整備されていない状況です。文部科学省が責任を負うべきだと思います。文科省は、部活動を何と表しているかというと、「教員の自主的・自発的な教育」。簡単にいえばボランティアだということです。しかし、ボランティアではあるけど、事故が起こった場合には学校の管理下だから、学校の責任を負うということになっています。矛盾しているし、昭和41年に出された勤務時間の全国調査に基づいて、教職調整額4%ぐらいみたいなものがいまだに続いています。

保護者、子供たちがサービスを受ける側からすれば、「ボランティアではなくて、当然与えてくれるもの」という認識が根付いてしまったことが問題です。つまり、部活動問題を誰の問題なのかと考えた時、教員の問題ではなく、子供たち、保護者の問題だということです。

部活動をする子供たちの立場を重視しながら、彼らが問題点を知っておく必要があるわけです。麴町中では、部活動というボランティア活動を、PTA活動の中に位置づけたんです。PTA活動に位置づけると、PTAが部活動やるの?と勘違いする人がいますが、そうではありません。「P」と「T」のアソシエーション(Association)だから、PTAという組織は教員も入っているわけです。

教員が入っていることも変な話ですが、もともとはGHQが主導して、全国にPTA活動ができました。学校教育が暴走しないための仕組みとして入ったわけです。しかし、法的に考えれば、学校教育の外にある任意の団体です。ただ、今とりあえず存在するから、僕は部活をPTA活動の中に入れて、教員がボランティアで行っているという体裁にしました。

この結果、年度当初に部活動保護者会を開く時、主催がPTAになりました。PTAが、実は学校の先生たちが勤務時間外の時間を使って、部活動を行っています、という説明をしてくれるようになったんです。そうすると、もともと仕組みの中に入っていないものを、教員と保護者が協力して部活動を行っているという認識が、保護者の中に芽生えるので、問題を丸投げしなくなりました。保護者や子どもたちが自ら考えてくれるようになったのです。

今までなら、部活動の顧問がいなくなると、「先生たちどうするんですか」「ちゃんとしてくださいよ」と保護者や子供たちが言うわけですが、全く起こらなくなるんですよ。部活動とはみんながボランティアで支え合うものだという認識が、当事者として分かってくると、その問題解決を一緒に考えてくれるようになるのです。

工藤:例えば、麹町中のサッカー部は中体連を脱退してしまい、クラブチームによる無料の練習を行っています。試合に出場する際は、中体連ではなくクラブチームとして出ています。サッカー部のほか、硬式テニス、水泳など、いくつかの部活動はもう全部委託です。教員たちはそのフォローぐらいしかやりません。バックアップも全部保護者がやるということです。

横浜創英は部活動がものすごく強いんです。全国レベルのものもたくさんあり、全国優勝した部もあります。一方で、進学実績を上げることも目標に据えています。横浜創英は私立高校ですが、麹町中の経験から、部活動は業務として認めるべきなので「勤務」にしました。すると、労働基準法上、当然しばりが出てきます。今の部活動をものすごくやりたいという教員も、正規の勤務時間がありながら、さらに部活動やるので、できなくなってしまいます。

そこで1年かけて働き方改革を行い、全員が出勤する日は火曜日と金曜日だけにして、月・水・木・土は4分の3のシフトで回しています。土曜日に部活動を行う者は、午前に授業を担当することで、土曜日勤務とし、月曜日に必ず休むようにしています。

現実問題は国が根本的に変えなければいけないと思いますが、部活動に消極的な教員の意見も含めて、どう解決できるのか、皆がアイデアを出し合って、組合も一緒になって考えていくようにしています。現実にまずやることが大事だと思います。

橋本:それは校長先生の裁量で可能なんですか?

工藤:可能です。当然、社会保険労務士など専門家の意見も聞きながら整備していきます。

労働対価の考えを導入するべきだ

橋本:漆先生、女子校でも、部活と先生の勤務の問題は当然ながら同じような問題ですよね。

漆:忙しいのは部活だけではありません。まず「多忙調査」という調査を行いました。何を忙しいと思っているのかを調べたところ、人によって様々でした。同じ部活でも、好きでやっている人と、好きではない人が担当するのでは、全然違います。

もう一つわかったのが、不公平感です。あの人は休んでいるのに、自分はやっているという、この不公平感が多忙感につながるんですね。だから多忙というのは、時間的な忙しさに加えて、忙しい気持ちにもなるということがわかりました。そこで、変形労働時間制に変えました。教員は当時、人によっては、夏休みの間、ひと月近く休める人もいれば、部活を担当していて1年に4日しか休んでいない人もいるという、極端な違いがありました。それを年間の労働時間をカレンダーで決めて、夏、冬、春に休みをまとめて取る仕組みを取り入れました。その結果、不公平感を是正することができました。当時は週6日働いていましたが、今は週1日を研修日にして学校に来ない日を作れるようにしています。

部活に関しては、時間と日数のルールをつくりました。それまで無制限にやっていたのを、例えば朝練は試合前の届け出制にするといった具合です。あるいは、午後8時までやっていた練習を午後5時50分まで、週4日までにするなど、ルールを作っていきました。その結果、失ったものは、オリンピック選手の輩出ですね。体操や水泳は大変強く、かつては教員の中に実績のある熱心な指導者がいました。全国優勝を成し遂げ、オリンピック選手を7、8人輩出するくらいの実績がありました。しかし、さすがに週4日の練習ではそうした結果は出なくなりました。

しかし、得たものは、部活を楽しんで取り組む生徒が増えたことです。ダンス部は100人近く所属していて全国クラスに成長していますが、練習日はたったの週3回です。それでも色々な賞を獲ってきます。生徒に訳を聞くと、「私たちは自分で考えています」と答えていました。一般的に強豪校は教員の指導が厳しいですが、私たちは中学生自身が話し合います。今回は「お坊さんダンス」とか、突飛なことを考えるんですね。テーマ性を持って取り組んでいる点が評価されているのではないかと思います。

橋本:テレビで中高生のダンスを見ていると、生徒たちの目は生き生きとしていますね。やはり両先生方は工夫されていますね。しかし依然として、根底にある問題はボランティアで、それに対してお金がつかないということではないですか。お金がつけばいいというものではありませんが、やはりお金がつかなければおかしいと思います。こんなことがなぜ許されてるのですか。

安西:工藤先生、漆先生は、校長先生、理事長という立場で、学校は私立です。しかし、公立の学校については、どうしても一律というか、横並びが先に立ってしまいます。校長先生によって、部活に力を入れる学校と、そうではない学校があり、まだら模様があるように見えます。

私は橋本さんの意見に賛成で、部活というのはエキストラサービスだと思います。やはりプラス・アルファの給与など、なにがしかきちっとした見返りをつけるべきではないかと思います。

一方、部活は全部、外注でよいのか。コミュニティーとの関係があるために、全国一律に決められる話にはなりにくいと思います。先生自身も、部活に関わりたい人とそうではない人がいるわけです。私は、部活に関わりたい先生が生徒と付き合ってもらいたいと思いますので、基本的には先生の希望によって、さらにサービス料などといったものをつける形でもって進めるのが妥当ではないかとみています。

橋本:やはりサービスにはちゃんと対価は払わないと駄目です。

部活の問題をあいまいなまま放置しない

工藤:大事なことは、正規の教育活動の時間をコンパクトにすることです。高校の卒業に必要な単位数は74単位ですが、実際はもっと多く教えているわけです。90単位を超えると思います。私はこれを74単位にしようと思っています。教える時間を最小にして、学びを子供が中心で行っていく。そうすると、1週あたり2回ぐらいは5時間ができると思います。大学と同じように、ここは自分の勉強のために時間を作るとか、別の勉強をしようとか、子どもの自発的な学びにもつながっていくと思っています。

一つ言い忘れたのが、教員にはもう、教える技術は要らないのです。教える技術ではなくて、専門家へのつなぎ方、コーディネート、学び方を伝えていくことが大切です。色々な学び方があることを紹介し、子供たち同士が共鳴しながら、学ぶスタイルに変えなければいけないでしょう。

部活も、昔は教え込んでいくスタイルで全国レベルに達することがありましたが、今、サッカー部は練習時間が90分しかありませんし、休みが必ずあります。ヨーロッパでは、高校生が土日に試合を行う場合には、練習を48時間させてはいけないという協定が結ばれているくらいです。部活動のあり方が教育されているのです。いまだに日本は、どんなにパワハラ的な監督の部活であっても、優勝すればメディアが取り上げます。最上位の一番大事なところを合意していない国は、そこに表れるわけです。

漆:部活の問題は、子供にとってどうなのかという点と、先生の働き方を分けて考えないといけないと思います。部活のおかげで今がある、という方はいると思います。逆に言うと、部活を強いるのはまずいと思います。

生徒は普段の授業で、先生とうまくコミュニケーションを取れていなかったり、科目への苦手意識があったりして、気持ちが小さくなってしまうことがあります。しかし、部活では生き生きしていて、「すごいね」と声をかけられると、今度は授業に良い影響を与えることもあります。担任の先生との相性は悪いけど、部活の先生との相性がいいから頑張れたとか。それが非認知能力に関わるということもデータで裏付けられています。しかし一方で、先生たちが体を壊すくらいボランティアで犠牲になるというのは違うでしょう。学校経営では、両立点や落としどころを見つけていくことが大事だと思います。

教員採用において、部活を指導できる点を評価して採用してはいけないなどと言われます。しかし私は、学校によっては色々な特徴があるので、一つの要素ではないかと思います。

悩ましいのが、教員が「私はこれは趣味です」と主張する時です。放課後に残って生徒に教えるとか、やる気のある子に部活を指導するとか、質問に残って教えるとか。「これは私が教員という道を志した動機であって、労働時間で決めないでほしい」と言われることがあります。だけど、許していくと、体を壊すことにつながったり、周りの人もやらなければいけないような雰囲気になったりするかもしれません。悩ましいところです。労働基準法は学校にも適用されますが、教員の仕事は、ある時間が来たら仕事を終えるということが難しい仕事です。生徒のトラブル対応もあり、終業時間だからといって帰れることはできません。

生徒の自主性を育てる教育

橋本:ご苦労もあるし、次々と課題を先取りしながら取り組んでいるとも思いましたが、保護者についてもうかがいます。最近の保護者像は良くなっているのですか?あまりよろしくない質問かもしれませんが。

工藤:本当にいろんな方々がいらっしゃいます。麹町中の時は、公立ですから、私立と違って責められやすかったです。教員は公務員ですから、何でもありのクレームがあります。理不尽な方もいらっしゃいます。場合によっては警察に相談することがあれば、弁護士に入ってもらうこともあります。当然そこは線をきちっと引かなければいけないところがあります。

ただ、保護者の方がみんなクレーマーかといったら、全然そんなことはありません。社会全体にも通じますが、保護者はサービスを提供される側という意識が高く、要求度が高くなっています。しかし、学校のスタンスを入学前や年度当初からきちんと説明していけば、全然変わっていきます。

麹町中の一番の目標は「自律」と「尊重」です。入学前に保護者に対して、「自律」の部分については、こう説明します。「うちの学校は、親の言うことを聞き、勉強をして、成績もいい『A君』を育てる学校ではありません」「親の言うことも、先生の言うことも聞かないし、勉強に気が乗らなくて、今のところは成績もあまりよくない。でも、自分で考えて決めることができる子を育てます。だから覚悟してきてくださいね」と。

「尊重」の部分については、例えば「発達に特性がある子がいて、授業中パニックになります。そうした子供がいると、排除してくださいみたいなことを言う保護者の方がいますけど、うちは全く排除しません。これを解決するのは、子供たちがどうやったらこれが解決できるか、苦労する学校です」と。排除しない、つまり解決するのは自分たちだということです。

トラブルが起こるたびに、「それはチャンスだよ」と保護者や生徒、教員に伝えています。僕らが目指しているのは、必ずトラブルの結果として、子供や保護者の信頼が増すようにすることです。3年生ぐらいになると大応援団に変わるんです。学校評価の仕方も、基本的には相手を評価するのではなく、自己評価になっていきます。

麹町中では、学校運営協議会制度というコミュニティースクール制度を取り入れました。1年に1回、保護者と子供たちと学校と専門家が一緒になって学校を評価します。自立や尊重をそいでいるものがないか見直そうとブレインストーミングをやるのですが、子供たちから出た案で面白かったのが、一つは「数学は教えてない授業をしているから、自分たちにとっていいけれど、でも、社会などは教え込む授業なのですごくつまらない」と言ったことです。さらに、生徒が調べてきて、授業をして、それが間違っていたら先生たちが正してくれればいい、という意見を出しました。ただ、これは実現していません。現実的には難しいからです。

子供たちからの案で、もう一つ面白かったのは、生徒による自主的な避難訓練です。これは実現しました。避難訓練を月1回行いますが、生徒が先生たちの後を付いていくのでは、自立しないというのです。「どんな時に緊急事態が起こるか分からないから、避難訓練は自分たちだけでやった方がいいと思います。先生はそれを見ていればいいんです」と子供たちが提案したんです。麹町中ではその後、生徒の提案を実際に実施しました。子供たちが避難訓練を自ら計画して、最後の講評まで行いました。

保護者も生徒も先生も、最上位の目標を互いに共有化すると、対立構造にならないということです。日本の教育に一番足りないものです。

制度と乖離する教育を乗り越える私学

漆:今の制服は生徒の提案に基づいています。子供たちから、スラックスを制服にするという提案を受けました。プレゼンも受け、子供たちがスラックスを開発しました。大人が思っている以上に小中高生は、任されたら自分たちでできるということを感じます。

保護者の方に関しては、本当に学校によると思います。私が学校に戻った頃は、テストで名前以外は答案が書けないという子に、どうやって点数を取ってもらって就職させるかということを、親御さんと協力して考えていました。

親御さんが学校に要求することと、親御さんと協力していくことは、今とはやはり違うんですよ。私立と公立と違いもありますし、各学校で異なります。

本校も、生徒数が少なかった頃は「何でもします。受けてください」と説明する学校でした。そうすると、Aという親御さんもいれば、Bという親御さんもいて、互いのニーズがぶつかるんです。でも、今は学校説明会などでこのように伝えています。「本校に入学して、必ず提供できる経験があります。それは失敗ともめごとです。失敗はチャレンジの結果。もめごとは、考え方の違う人と一緒に仕事をして、妥協しなければ必ずもめる。これは本校ではよいことです。だから中1、中2の時は、けんかして泣いて帰ってくることもありますよ」と。そう説明すると、これにあう生徒が入ってきてくれます。ある程度協力関係があらかじめできている人たちが入ってくるということです。

学校によりますが、うまく仕組みにして協力し合う。皆同じ船の上に乗って支え合うんだよと伝えています。うちは「品川ファミリー」と言っています。

橋本:お二方は先進的な取り組みをしているとつくづく思うと同時に、制度との乖離が大きくなっていると感じます。ここに文部科学省職員が来てほしかったという気がありますが、がんじがらめの教育指導ががんになっているのではないかという感じさえしました。

安西:一つのポイントは、どうしてもそこに行き着くと思います。文部科学省、自治体教育委員会、それから各学校。特に公立の場合、非常に階層的な構造になっていて、しかも人事は教育委員会が掌握しています。教育委員会は都道府県と市町村とあって、人事はどこ、施設はどこ、と色々決められています。現場で働いている先生1人ひとりが、一体どっちを向いて働けばいいのか。上司がどっちを向いているのか。いわば超巨大独占企業の構造があるように見えます。これをどのように柔らかくしていくことができるかということに、これからの日本の一つの道はかかっているでしょう。

両先生は私立にいて、自由にできる面はあると思いますので、ぜひリードを続けてほしいと思います。公立は学校の中だけで変わろうと思っても、変わり切れるものではないので、周りが応援していかなければならないと思います。

【会場と質疑応答】

橋本:最後にフロアから質問を受けたいと思います。

教員の考えが封殺されている

【Q】小本:第1回シンポジウムパネリストの、公立小学校の小本翔と申します。教育に対する課題や問題がこれほど急務であると突き付けられて、危機感を感じると同時に、職員室の同僚同士では、このような話題に触れたり協議されることというのは実はまれであり、工藤先生のお言葉をかりるのであれば、まさに教員自身が当事者意識を失っているというふうに、時にはお花畑にいる先生方だよねというふうに揶揄されることもあります。この問題の根本の一つが、まさに教師の当事者意識だと思いますが、残念ながら学校という組織において、運営方針とか生徒対応や保護者対応に違和感や異議を唱えても、管理職の意向や意見が絶対視されるようなことが前提となっていることが多く、たとえ総意であったとしても、個々の教員の考えが一切反映されずに、封殺されてしまうことがあります。工藤先生と漆先生から、教師としての経験も踏まえ、現場で違和感や疑問を抱いている先生方に、何かメッセージがあればお願いします。

上位概念の確立と認識

【A】工藤:1人ひとりの教員の価値観は違いますが、皆が依存型になりやすいんですね。誰かに物事を決めてもらいたいと。ただ、学校長が決めることは、自分の学校の教育目標や教育理念になります。それが中途半端な教育目標だとすると、必ず手段が目的化していくことになります。例えば、知徳体という教育目標は日本中によくあります。小学校だったら「自ら学び、思いやりの心を持って…」といった教育目標がよくありますが、これ自体が教育目標のトップではありません。子供が自律していくために何ができるかだし、多様性を受け入れて、どうやって生きていくかと。その力をつけるというのが、もっと上の目標のはずであって、途中の目標からスタートしていては、いつまで経ってもぶつかり合いが起こってしまいます。そこを合意する作業がいりますが、この話が分かる校長はまだ日本にはとても少ないです。日本はとにかくこの壁を乗り越えなければいけません。

ヨーロッパにはなぜ乗り越えていく国が多いかというと、1万年、2万年も戦争をし続けてきたので、さすがに最上位の目標が分かるんですよ。教育って何のためにあるかといったら、突き詰めれば、平和のためです。戦争を経て、特定の国への恨みつらみがあり、とても許せない、という感情を殺さないと、自分の子供たちの時代には平和が来ないのではないか、という考え方があります。

職員室の中で議論をしたこともありました。ただ、どっちが上位概念なのだろうということを考える習慣が教育にないために、もう何か信じきっているんですよ。「子供のために一生懸命やるのが教育でしょう」と考えている教員もいれば、「いや、挨拶が大事でしょう」と。ただ、そうすると、場面緘黙症の子供がいても、「何で君は声を出さないんだよ?」みたいになります。逆に、特別な子を作ることになります。そういうことがまかり通っている教育の世界です。誰一人置き去りにしないものって何なんだろうという議論を徹底にする習慣をつけていかなければいけないですね。その前例を作ろうと思っているのが僕であり、僕らの周りの人間たちで、きちんとしたものとは何かということを実践で見せないと分からないだろうと思っています。

反対意見には仲間を増やして対抗

漆:私は教員1年目の時、職員会議で色々意見を述べたら、後で別の教員に呼ばれて、「3年間黙っていなさい。理由があって、やっていることだから」とたしなめられました。ただ、3年間黙っていたら大変なことになると思い、自分1人でできることを始めました。生徒のために動いていると理解してくれる人が手伝ってくれるようになりました。保護者の方や卒業生、生徒という「違う口」からも意見を出してもらうようにしました。そうしているうちに、だんだん味方が増えました。

ただ、今言われるのは、「先生、できない人の立場に立ってください」ということです。「できない人には理由があるんですよ」と怒られて、それもそうだなと思います。「やるのが当たり前で、やれない人が悪い」「私がやっているんだからお前もやれよ」みたいなオーラが出てしまいがちですが、積極的な気持ちにならないというような人や、置かれた立場など、色々な人がいるということをいつも知っていなければならないと思います。

仲間を増やしていく、できることからやるということ。相談すれば聞いてくれる人もいると思います。どこが突破口なのかを考えることが大切ですし、上の立場としては、いつも心がけています。

少子化の一番のネックはカネのかかる教育

【Q】男性:大学受験はハードルが高く、娘を塾に通わせていますが、通塾のために月10万もかかります。大学進学とお金の問題が少子化の一番のネックになっていると思います。お二人はどのように考えていますか。

大事なのはリベラルアーツ

【Q】男性:私立高校で教員をしています。多くの人が幸せで平和な社会をつくるには、リベラルアーツも大事だと思います。生徒が学校で取る単位は3年間で75単位と少なめで、その分を課題解決型の学習にあてていますが、基礎学力の低さが課題です。課題解決型の学習とリベラルアーツをバランス良く、どのように実践するのがよいでしょうか。

自律した子どもを育てる指標はあるか

【Q】男性:愛知県で教育改革会議に、地元の大学の教員などと一緒に取り組んでいます。自律した子を育てたいと考えていますが、教育の現場ではどのように実現していけばいいのでしょうか。指標になり得るものはありますか。

橋本:塾の問題、リベラルアーツの問題、教育現場で指標になり得るようなものを、というご質問がありました。

目指すべことを明確にすることも一つの方法

工藤:指標になり得るものを作るのは、時間がかかります。フィンランドは40年前に始めました。徐々に積み重ね、非認知スキルの測り方についての研究が行われていますが、日本で今、それが理想だと思って始めたら、おそらく教員は自分で自分の首を絞めることになります。評価するためにどうするのかを研究することになると、それこそ大変なことになっていきます。

ただ、何を目指していくのかが明確になっていけば、一致させることはできると思います。そこからやってみてはどうでしょうか。今、うちはやろうとしていますので、2年後にはそれなりのものが示せると思います。

お金については、やはり日本は教育費がとてもかかります。経済産業省に聞いたところ、民間教育産業は2兆、3兆円の規模で、日本経済を下支えしているといいます。ただ、少子化が進んでいて、日本の民間教育産業は飽和状態でもあります。日本の子供たちは不幸で、学校で勉強して、宿題があり、さらに塾に通い、塾の宿題をやり、習い事もやるって、世界的に見たら変な子供たちですよね。どう考えても非効率で、自分で考える時間が全くないという子供たちです。それも丁寧にペーパーの学力を上げようとしています。しかし、世界の大学に行ったら、ペーパーの学力は足切り程度でしかないわけです。

うちは今、人気が出てきていて、中学は偏差値が上がっています。ただ、偏差値が高い子供を入れるというイメージを持っていません。プレゼンテーションだけで合格できる仕組みや、ワークショップだけで合格できる仕組みを作りましたが、障害のある子供たちも含めて、様々な子供が入れる仕組みを作ろうと思っています。学校の中に多様性を作り、進級や卒業の規定も全く違うものにしていこうと思っています。

大学入試の学力とは何か

漆:指標については、幸せと意義ある人生は異なるとの研究結果があります。幸せとは何かということをまず定義しないといけないと思います。

お金に関しては、例えば、「トビタテ!留学JAPAN」というプロジェクトを主導した船橋力さんが寺子屋制度を始めようとしています。寺子屋のような個人塾を開き、オンライン教材を色々な人が協力して安く出すというものです。子供たちが安価で勉強でき、経済的格差の是正にもつながります。NPOのような取り組みを調べると、ヒントが得られるかもしれません。

リベラルアーツは私も悩んでいます。学力とは何かと考えた時に、大学入試の学力については非常に疑問を持っています。学校が社会に必要だと思って取り組んでいることと大学入試は、どうしてもぶつかってしまいます。高2まで色々学んでも、高3では受験勉強に集中することになり、中断してしまいます。ただ、推薦入試が増えており、少しずつ突破していける可能性もあります。

教育費に十分なカネを投与しない国

安西:特に公立学校の構造が硬直化している点について、若い先生方の中には、危機感を持っている人たちが随分います。そういう人たちのネットワークを作ることが、力になるのではないかと思います。

保護者の問題については、中高生の保護者は全国に1000万人程度います。一般にはまだまだ、自分の子供のことしか考えない傾向があります。政治も同じで、政治への参加といっても自分の周りのことだけしか見ない状況に近いです。これからの社会、日本をどうするのか、関心が向かないことに通じているように思います。何とかしていかなければいけないと思います。

課題解決型学習については、私は標準的なカリキュラムを積み上げていくことが大事で、共有していかなければいけないと思います。そうでないと、一般の先生方は、どうしていいか分からなくなってしまうと思います。

教育費については、日本の公教育の公財政支出が本当に少ないと思います。何とかしていかなければいけません。特に高校は、日本の教育問題の交差点です。これからの時代に、高等学校教育にもっと光を当てることが大切です。

橋本:まだ尽くせない論点もありますが、ここで終わりにしたいと思います。

教育に無関心な国は衰退する

馬場理事長:今ある制度でやりくりしながら、改革に取り組んでいく現場の努力が、お二人の現場の先生からの報告でよく分かりました。会場からの現役の先生方も、同じようなご苦労をされていることが、意見や質問の中にありました。特に印象に残ったのは、工藤先生の「主体性を失う、与え続ける教育」「当事者意識の低さ」でした。これは教育の現場に蔓延しています。

漆先生からは、女子学校の特徴を生かしながら、ダンス部が自主的な生徒の運営で全国トップを争うまでに成長しているとの報告がありました。日本は女性の能力をうまく使っていない国です。今後の伸びしろに希望を持ちたいとのご意見もありました。

安西先生は、歴史の見方を学ぶ、言葉の力をつけるという点を指摘されました。リベラルアーツの充実、教育にはお金がかかるけれどもこれを何とかしなければならないということを皆が考えるべきだと思いました。

以前のシンポジウムでもありましたけれども、教育に対する国民の無関心、これがやはり大きな課題ではないか。教育に投資しない国は衰退するでしょう。今日のパネルディスカッションを聞き、そのようなことを学びました。

第2回シンポジウムをここで終幕といたします。ありがとうございました。

(終わり)