お知らせ

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21 世紀構想研究会創設 25 周年記念シンポジウム  報告4(最終回)

2022/11/14

時代に取り残された学校現場 

教育施策の立て直しを考える

 パネルディスカッション

 

司会 パネリスト3人の冒頭発言が終わりました。ここからは橋本五郎さんを加えた4人のパネルディスカッションを始めます。

 「早寝・早起き・朝ごはんプラス先生」ではないのか

 橋本 私は秋田県の出身です。子どもの学力テストでいつも秋田県がトップクラス。そのたびにどうしてですかと聞かれます。

私は単純に早寝・早起き・朝ごはんプラス先生と考えています。先生についても私は簡単に考えております。先生の数を増やす、先生の給料を上げる、そして先生を尊敬する。この3点で十分だと思っています。

しかし、先生方のご報告を聞いて、こんなにひどい状況にあるのかと本当にびっくりしました。僕らが小学生のときどうだったんだろうと考えると知識を教わったというよりも、全人格的に先生を尊敬していたと思う。それが今やなくなっているのではないかという感じも受けました。

さてディスカッションですが、小本先生のご報告にありましたが、疑問に思ったのは、家庭科の授業で、なんで先生が買い出しまでやらなければいけないのか。子どもたちに買い出しさせることが一つの教育なのではないのかと思ったのです。まず小本先生にそのことをお伺いしたいと思います。

小本 言われてみてハッとします。たしかに子どもに買い出しに行かせればいいじゃないか。僕自身が子どものときに、米1合を持っていって、それでご飯を炊いた経験もありました。ただ、教材準備のやり方、授業研究のやり方というのは、先輩の先生から教わります。そうすると、こういうやり方だ、これが当たり前だと自然に身についていきます。疑問を抱く感覚が年を追って薄れてしまう。事前に買いに行っている先生方、先輩方を見て、こういうやり方だなと踏襲してきたことに気が付きました。

橋本   松本さん、その点はどうですか?

松本   家庭科の材料を買いに行くというのは地域格差がすごく、東京都内で家庭科の食材を買い出しに行っているのは聞いたことがありません。事務がやっているからです。学校でまとめて買っています。

小本先生がおっしゃった埼玉県ではそうなんだ。しかし東京都のように財源が担保できるところは、先生もやっていません。先生個人の格差じゃなくて、地域格差というのも大きいことを実感しました。

子どもに買いに行かせるのは教育上大変素晴らしいと思いますが親は納得するだろうか。何かの事故が起きたとき、絶対に学校にその矛先は向く。そのときに校長先生は先生を守れるだろうか。そうなったとき、やっぱりやらなきゃ良かったという話になるだろうなということも懸念します。

橋本   安西先生、小学校の教員になる人が少なくなるという現状をどう見ますか?

 

 仕事は増える給与は安いで聖職論

安西   本当にひどいです。ひどい原因は何かというと校長の指示に従わなきゃいけない。校長はどっかの指示に従わないといけない。そういう指示に従うということと、責任を取らないということは、大体裏腹ですけども、そういう構造が現場へ圧力になっている。非常に細かいことまで現場のほうに押し付けられているということだと思います。

これを解決には、小本先生のような方に裁量の範囲を広げてあげないといけない。それがなかなかできていないという状況をこちらの側から応援しながら変えていかなきゃいけないと思います。

橋本   田中角栄さんが総理大臣のとき人材確保法をつくりました。この法の大きな柱は、先生の給料を段階的に上げるという法でした。実は私の父親も母親も教師で、母親は結婚してしばらくして辞めましたが、おやじが亡くなったのは私が大学1年のときです。現職の小学校の校長で亡くなりました。

その給料袋を見て驚きました。私は大学を卒業して、読売新聞に入って、2年目でおやじの給料を超えていました。それはまだ人材確保法ができる前でした。一体先生の給料ってなんだったんだろうと思いました。

教師聖職論は、お金で教師をやっているわけじゃない、使命感でやっているということですから、そのときにカクさんは、「先生に、カネの心配をさせては駄目だ」と言ったのです。私はこの言葉は本当にいい言葉だなと思って、今もって記憶に残っています。

しかし、たとえ給料を高くしたとしても、これだけ過酷な仕事をただこなすことばかり考える先生になるのは困るわけですから、これは増やすしかないとなるのでしょうか。

安西   教員を増やすというのはそのとおりで、35人の学級の児童数も減らなきゃいけないという状況です。やはり専科の先生を増やすことが大事だろうと思います。これから英語とかデジタルとか家庭科もそうですが、小学校の場合全部担任の先生がに面倒を見るというのは時代にそぐわないと思います。

橋本   小本先生、まず一人の人間があらゆることが大体可能なのかという、一つの根本的な問題がありますよね。これだけ専門的な分野がいっぱい知識を要するような時代になってきている中で、担任が全部受け持つというのは過去のものだと考えてもいいのではないか。

小本   複数の学年、担任が3、4人いる学年に関しては、教科担任制で一人の先生が家庭科を全クラス持ったりします。あとは、専科の先生も音楽だけではなく、学校によってはもちろん家庭科を伴う専科の先生もいたりします。

しかし担任が家庭科を受け持つ学校もあるということだけは、前提としてお話をしておきます。小学校で一番重要視されるのは、子どもの安全と集団規律だと思います。細部まで入念にというよりも、とにかく子どもが時間内に安全に楽しくいきいきとすごすことに全力を挙げているので、そこまで専門性に対して負担を感じたことはあまりありませんでした。

 政策立案・設置者・教育現場で責任の所在があいまい

橋本   振り返ってみると高校、大学と学んでいくと卒業する頃には、自分の教えてもらった先生よりも私のほうがものを知っているくらいの気持ちになる。しかし先生に対しては、知識の量で尊敬するのではなく、全人格的に先生というのを私は尊敬していたと思う。それが次第に薄れて、こんな細かいことをやられると、なんか全人格を磨くというか、その時間もなくなっちゃうということになる。

松本さん、やることが五十何項目あると指摘していました。先生の仕事をもっと減らし簡略化しながら、先生と児童が休み時間に談笑する姿こそが教育ではないのか。これを変えようというのが行政側ではないのか。そういう動きはないのでしょうか。

松本   働き方改革で文科省も調査はやっていますが、先ほど安西先生がご紹介になられたように、責任の所在があいまいなのです。文部科学省が政策をつくるけれど、教員の採用をしているのは都道府県で、さらに市区町村が小学校、中学校の設置者、高校は都道府県という形で分かれている。責任がここでも分断されていて、さらに教育委員会がある。といっても最高責任者は校長であるのです。ここでひらたくいえば無責任体制ができてしまう。

そもそも学校の役割があいまいです。アメリカやイギリスがまったくあいまいで、アメリカもイギリスも格差の社会なのであいまいで、朝からごはんが食べられない子も来たりするので、自治体によっては朝ごはんから食べさせるというアメリカの学校もあるわけです。

じゃあ誰がアメリカの学校の子どもたちのごはんを食べさせているかといったら、専門職員がいるんです。昼のランチにしたって、ちゃんと専門の職員がいるわけです。要するに、学校の役割があいまいであっても、アメリカやイギリスでは、その専門の職員がたくさんいるということです。

専科の先生という意味でいえば、専科の先生、専門性、教科担任というのを置いているのは、実はアフリカとか中国くらいしかないんです。ヨーロッパ、それからアメリカでは、教科の担任というのは置いていません。教科の専門性をもっと高めるべきだとおっしゃるけど、中国は教科の専門性という意味じゃなくて、文革でエリート層が少なくなっちゃったということがあって、専科の先生がいるわけではない。

だから、日本の学校の役割はなんなのかということを定義しない限り、いくら先生の仕事を減らそうとしても無理です。日本の場合には塾がはびこってしまい、一番学校でやらなくちゃいけない教科の教育を塾に丸投げしちゃったということです。その結果、先ほどの地域格差と、所得の格差が、そのまま子どもの上に乗っかっているという状態になっています。

教科の専門性を高めるためよりは、まずここで安心して学べるという場を担保する。その一方で、高学年になったら教科専門性が入ってきて中学に乗り移れるようにするというのもいいと思います。

しかし算数も理科もできない小学校の先生がたくさんいます。これは先生の問題じゃありません。元々日本の教育、大学教育、それから教員養成のシステム自身が、理数系をやらなくても先生になれるようなシステムをつくってきたからです。どこかちょこちょこといじればうまくいくなんて話ではないんです。

 ブラックの職場では教員のなり手がいない

橋本  私は生まれ変わったら何になりたいかとよく聞かれます。福山雅治になりたいということと、もう一つは、小学校の先生をやりたいと答えます。白いキャンバスに絵を描くように、先生によって将来が決まる。大学の場合はある程度子どもたちが成長している。しかし小学校の先生は圧倒的に大事だと思う。

それなのにず、なんでこんなになり手が減っているのか。その原因はどこにあるのか。ブラックな職場だからなのか。それとも先生になって何も尊敬されるわけでもないということなのか。松本さん、どうしてなのですか?

松本   先生が尊敬されない職業であるということ、もう一つは自由がないことです。これは校長先生が悪いわけじゃなくて、校長先生に絶対権限を与えて、職員会議は校長先生を補助する機関と決めてしまった文科省令にあるのではないでしょうか。制度的に先生になっても何も面白くないです。どの教科書を使うか。それも先生の裁量ではない。先生は信頼されていないのです。

橋本   安西先生はどうですか?

安西   教員になりたがる人が減っている理由は、ブラックの職場だということはたしかにあると思います。二つ目は、教員になるとずっと教員でいる。華やかや人たちがみえる中で、地道に毎日、繰り返しする。それが教育なのですが、それをやっていけるのかなというのもあると思います。三つ目は、大学の教職課程を取るか、あるいは教育学部へ行くか、それを早くから決めないとないということもあると思います。

サラリーマンになって、途中で学校の先生をやりたいといってできるか。できてもいいと思います。そういう職業の選び方の柔軟性というのをつくれば、ビジネスから途中で人材育成に関わりたいなという人が出てくる可能性があります。

橋本   小本先生、この点はどうですか?

小本   非常に複雑な立場で聞いておりました。取り残されたとかひどい環境だ、そしてブラックだということをしょっちゅう目にします。当事者として、自分の仕事が誇れなくなってしまったら終わりだなという感覚は維持しなきゃと思っております。授業準備、教材研究でも私は負担に思ったことはなく、気付いたらこんなに時間割いているんだなと思ったものです。

安西先生が資料で載せていただいた就職の人気ランキングですが、残念ながら今の子どもたちは教職というものに憧れや畏怖の念というものはほとんど抱いていないのが現状です。小学校6年生を担任すると、3学期にキャリア教育といって、自分の将来の職業について調べたり、グループで発表したりします。

最近話題になるのは、YouTuberであったりとか、会社の社長であったり弁護士、花形の職業はたくさん挙げます。僕が小学校6年生を4回担任しましたが、先生になりたい、教員になりたいという声がほとんどありません。

4年前に担任した子どもたちに「教員ってどう思ってるの?」と言ったことがあります。大変そう、ブラック、負担が大きいとか、6年生でいっちょ前にそれを言うんですよ。でもそういう目で自分の担任も見ているのかなとか思うと、非常にいたたまれなく、やりづらい気持ちは拭えません。先生大丈夫ですか、大変そうですねなんて、同情の目を注がれたこともあります。

しかし僕はやはり力強く、そうじゃないんだよというのはアピールしていかなきゃいけないなと思います。人を増やせばいいという案もあるのですが、その人にもよります。著名な方やスポーツ選手や有名な方が来たとしても、保護者の目からみれば、どんな先生が担任として受け持ってもらいたいかというのは、やはり以前お世話になった先生であったり、父兄や父母の信頼とか評価が口コミで高い先生です。人望とか信頼というものは数年かけて培っていくわけなので、パッと来た先生にそれがあるかどうかということになります。

今いる先生、現職の先生というものを、あらためて大切にしてほしい。あとは、仕事はこういうことをやっているんだというのをまずわかってもらいたいというのが、現職の一人の意見として述べさせていただきます。

 なぜなくなった教師への憧れと尊敬

橋本   私はなぜ生まれ変わって先生になりたいかというと、亡くなるときの自分を考えたときに、教え子たちのことを思い、こんな幸せな仕事だったのかと思って死にたい。新聞記者は死ぬときに一体何を思うか。あのときちょっとしたスクープを書いたくらいしかないです。

ところが先生の場合は、多くの自分の教え子たちが社会に羽ばたいていっているわけです。何人も何人も積み重なっていくんです。こんな崇高な職業があるのか。そのことをどうやって知ってもらうか。ブラックであるということとまったく別に、それは親の問題でもあると思うんですよ。親が先生を尊敬するようにしないとならない。その点について注文はありませんか?

小本   保護者はどこに影響を受けるかというと、メディア・報道だと思います。この数年間のネガティブキャンペーンによって教師の質、印象を下げてしまっている。毎日のようにニュースを見たらわかります。以前は学園ドラマとか青春ドラマとかあったと思いますが、いまは見なくなってしまい、教師という職業は崇高なものでないという印象になっていると思います。

橋本   こんな先生がいたらいいなというドラマがずいぶんありました。大体変わった先生がいました。ある種の憧れだったり、尊敬であったり、それが基本にあったような気がします。

さて教員のなり手が減れば、当然ながら質が低下する。質の低下をどうやって食い止めたらいいのか。この点では安西先生、どうですか?

安西   やっぱり魅力ある職場にしていくということしかないと思います。給与の問題もあるし、さっきの給特法の改正ということはあります。魅力ある職場にしていくということは、質を高めるということだと思います。外資、コンサル企業に行くより教職に就きたいという場にしていかなきゃいけないということです。

橋本   これは難しい課題です。松本さん、どうですか?

 教員養成には質のいい教職課程にするべきだ

松本   質低下をどう食い止めるか。やはり先生に時間をあげなくてはいけないと思います。専門性を磨くための時間です。教職大学院などにちょろっと行くだけじゃなく、きちんと時間をあげて、次のステップに行くためには3年間くらいちゃんと勉強しに行って、そしてまた新たな思いで教壇に立てるようなシステムをつくることです。

専門性で自分を磨くことができないという状況の中では、子どもに笑顔で接することができる先生、愛想のいい先生。これがいい先生というふうに保護者に誤った印象を与えてしまう。保護者もあの先生優しいとか、笑顔で接してくれるだけで満足する。どうやって子どもの学びを深めてくれるのか、どう先生自身が学ぶ人なのかということを親は問わなくなってしまう。

やっぱり先生の能力を向上させるためには、どう考えてもまず時間をあげてもらいたいと思います。

安西   誤解を恐れずに申し上げれば、教職課程をどうするかということも一つ課題だと思います。今教員の資格は、教職課程の単位を取れば、教員免許は取れるようになっていますが、その教職課程が本当に質のいいものであるかどうかです。その評価はほとんど見えないことも課題だと思います。

そこが魅力のあるものであれば、魅力ある職場、あるいは質の高めることにつながる可能性はあると思います。

橋本   かつて九州でいじめがあって、そして校長先生が自殺したというケースがありました。あのときに校長先生が記者会見に臨むわけです。とにかく子どもがいじめで死んだ。で、もうおろおろしているわけです。そうすると、記者からどんどん質問が飛ぶ。

さっき言ったことと話が違うじゃないかという具合に、とうとう追い詰められていきます。あのとき私は文部大臣に言いました。教育委員会はなんのためにあるんだと。校長先生を矢面に立たせて、それで全部そこで処理させようとしているというのはおかしい。ちゃんと教育委員会が会見をやるべきだと話をしたことがありました。校長先生に全部権限を持たせるということなら、教育委員会はなんのためにあるのか。この制度、小本先生はどう思います?

小本   見えない圧力というのはどこの組織でも同じだと思います。ただ、矢面、槍玉に挙げられてしまうのは、校長先生や教頭先生になります。先生方も立場上仕方なく、理不尽な圧力とかそういったものを感じながら、板挟みになっているところもあります。一教諭としてどこまで申し上げていいのかわからないのですが、やはり制度としてちょっとおかしいというところは、僕自身も考えることがあります。

安西   私の理解では、学校の校長権限は学校の中のカリキュラムとかは校長権限。教員の人事、施設問題は都道府県、あるいは基礎自治体の教育委員会にする。学習指導要領を決めるのは文科省の権限です。しかし、いじめの問題などはグレーゾーンに入る、どっちも責任取りたくない。そういうことが多くなってきました。弱いほうが責任取らされるようなことは、あってはならないことです。メディアもそうですが、ある意味弱いほうの味方をしていかないと解決しないんじゃないかなと思います。

 校長には権限がない人集め

橋本   先ほど先生を増やしたり、給料の問題、その予算の問題が出てくる。制度上、やっぱりこの制度は変だという、根本をやっぱり変えないとおかしいんじゃないかというのは、さっき松本さんから話がありました。ブラックになっている状況も含めた、改善するための制度論的な問題があります。

松本   制度論の課題はいっぱいあります。上意下達のような、上が言ったらみんな従うべきとかあります。2000年になるまで職員会議というのは法的に位置付けられてなかったわけです。そこで初めて補助機関と位置付けられて、さらに校長先生に全てが委ねられるような形になった。

その一方で教育委員会は、戦後の民主主義の象徴みたいなものになっている。校長先生に人事権はないわけです。先生のリクルートは、ものすごく重要ですが、どういう先生を集めるかは校長先生に権限はないのに責任を負わせるという矛盾があります。

教育は、まさに取り残された民主主義の牙城になってしまった。戦後ありがたくもらった民主主義の装置が、全部駄目になっているのが教育の現場です。教育委員会、PTAしかりです。全部もう1回洗い直しをするべきでしょう。いまスマホを開いたら世界が見えるわけです。その中で、古くさい現場を見せられたら、教員になりたくないと思うのは当たり前です。だから、どこから変えるのではなく全部変える。それくらいの気概じゃないとこの先はないだろうと思っています。

橋本   小本先生、さっきの地裁の判断、高裁の判断。これについてマスコミでどう報じたのですか? この裁判はおかしいという感じの論調ではなかったのですか?

 教員の目を外に向かせる方策はないか

小本   実はそこに目を向けているような当事者がどのくらいいるのかというのがちょっと考えなきゃいけないところです。この裁判の経緯を知り、自分だったらと考えるようになったのがつい最近のことでした。現場の教員というのは報じられているような出来事には無関心であったり、対岸の火事というふうに考えるケースがけっこうあります。

とにかく自分自身のことで精いっぱい。今この学校の1週間を乗り切ることで精いっぱいというのがほとんどだと思います。まず一つは、時間がやっぱり足りないんだなというところと質の低下です。何を質と考えればいいのかというと、いわゆる指導力の低下です。しかし教員自身が一般常識とか、世間の動向をどこまで知っているのかというところを考えなきゃいけないとも思います。

アップデートという言葉がありますが、教員自身のアップデートも必要なのかなと思います。一時期前にイスラム国という話題がたくさんあったと思うのですが、子どもたちがいざネットとか新聞とかニュースで疑問に思ったことを、教科書以外の質問をします。そのときに、これはねというふうに、教員が時事ネタを説明できないこともけっこうあります。

現場がとても閉鎖的で、一年一年、毎年同じことの繰り返しをしている。教科書のことで精いっぱいという現状です。外の動向、世間をもっと知るようなきっかけ、チャンス、時間的な余裕がなければなりません。土日に外と関わるような機会が増えれば、もっと多角的な質が向上するのかなと思ったりしています。

橋本   安西先生が先ほど言った、今世界がどうなっているのかという関心を先生に中に導いていくこともすごく大事ですよね。製造業の人でも世界の経済がどうなっているか、ウクライナがどうなっているか無関心ではいられない。先生だってまさにそうです。

安西   私は学校の先生が異業種交流をやるべきだと思います。時間がない、忙しすぎるところを減らしながら、違った業界というか、仕事をやっている人たちと交流する機会を積み重ねていくことが大事だと思っています。学校の世界が限定されている感があります。世界で何が起こっているかということを、たとえば企業の営業の人でもいいから、そういう人たちと、あるいはメディアの人たちと話をする機会をもっと増やすべきだと思います。

橋本   学校の先生は60歳の定年ですか?

小本   そうです。

橋本   60定年で、80歳まで生きてもったいないなと思います。経験のある先生を活用しない手はない。私は東大経営協議会の委員だったときに、定年後の先生をアルバイトで雇えと強く提唱したことがあります。小学校でも経験者をうまく使って、先生不足を補うことができるじゃないか。現場から見てどうですか? むしろ邪魔ですか、そういう先生が来ると。

小本   邪魔ですと申し上げたら、どうなっちゃうかです(笑)。ただ、健康寿命と本当の寿命とまた違うと思います。60歳で定年を迎えられても、その後再雇用という形で、若手の先生の人材育成に努める先生方もいらっしゃいます。

あとは、働き手が不足するとは限らないと思います。先輩から後輩へ伝授するというような、技能の伝達とか、知識の伝承という機会が減ってきていると思うので、そういう高齢者が若者に経験を授けるような機会というものは、教員だけではなく、地域の方々も巻き込んでもいいのかなと思います。

新しい令和の日本型教育で、開かれた学校というキーワードもありますが、そういったところに人を増やしたり、財政のほうに向けていただければなという声はあります。

 外部から質のいい教員を入れる

安西   今働き方全体として、リスキリング(新しい知識やスキルを学ぶこと)とか、学び直しがあります。あるいは第2、第3の人生をちゃんと社会に貢献していくというのは、高齢化社会の流れだと思います。小学校教員は、子どもたちに全人格的な接触をします。それに適した方、そうじゃない方とおられると思いますが、人生の経験を持った方々が小学生とコミュニケーションを取る機会を多くしてほしいと思います。中・高校のほうは、教科の問題があり、たとえば情報教育は、高校ではプログラミングが必修になりましたが、教員は不足しています。情報通信系の企業の定年になった方々は、教員になることを待っている状況です。ところが、なかなか官庁側の腰が重い。情報教員はいま圧倒的に不足しています。非常勤で採用しようという動きはありますが、合理的な政策をきちんと立てていってほしいと思います。

松本   今年の4月に文科省は、特別免許状と臨時免許状をもっと出せというのを出しています。つまり、教員免許を持っていない人でも、どんどん教育委員会が積極的に活用しなさいということです。アスリート、博士号を持っている人らを使うように通知を出しています。しかし現場は、積極的に動いていない。

免許状を持っていてもこんな先生なのに、免許状を持っていなかったらどうなるんだという、現場の校長先生たちの不安があるからです。学校の校長先生たちの推薦がなければ教育委員会は動きません。

現場の意向を考えないで通知を出したと言われかねない。もちろん経験者は大事ですが、昔、社長でこういうことをやっていたとか、昔、大学の教授としてこういうことをやっていたというだけで来られても、小学校は困るだろうなと思います。

安西   私の理解では、教育委員会の裁量権は実質的には大きいと思います。マネジメント能力を発揮して、現場の自由裁量を増やさないといけないと思います。外からこういうこともできるんじゃないか、こういうところは自由にやったほうがいいんじゃないかということをリストアップして、持っていくくらいしないと気が付かないかなという気もします。

橋本  先生はなかなか増やせない。しかし有為な人材を外から入れない間に合わないと思いますが。

松本   そのとおりです。学びと働くというのを常に往還できるシステムというのが社会全体にあって、それが機能したらすてきな社会になります。

橋本   子どもたちが学校に行くのが楽しい、先生の授業を聞くのが楽しいというのが一番基本だと思います。その場合、免許状がどうだというものを越えたものが必要ではないのかおもいますが。

安西   そのような考えに対する抵抗勢力は、教育委員会や現場のほうにあると思います。基礎研修を半年か1年きっちりやり、審査を通った人に限って、教員の仕事ができるようにすべきだと思います。

小本   整理がまだついていませんが、ただ人を増やせばいいという考えは安易であり短絡的だという思いは現場の生の声としあると思います。また、不適切な教員が来れば小学生でも見抜きます。保護者も見抜きます。だからどんな経歴であれ、人を増やせばというものではなく、やはり時間をかけて育ててきた先生方をいかに大事に扱うか。こういう仕事をしているというのをきちんと把握するというところが前提だと思います。

橋本   松本さんのあげた教師の仕事の53項目を減らそうという動きはないのですか?

松本  それを減らすために文部科学省も働き方改革をしていて、中教審で先生がすべきでない仕事、先生がすべきだけど他の人がやるべき仕事というふうに、3分類に分けています。3分類を実現するためにはお金が必要です。

外部の人材を入れるためには、ただで人を入れようとすると大変な手間と暇がかかります。やっぱりお金の話に行き着いてしまう。教職調整額にしても4パーセントですが、あれをたとえば先生たちの今の残業時間に合わせて、小学校だったら30パーセント、中学校だったら40パーセント上げるとしたとする。

30パーセントを40パーセントに上げたら、国庫負担だけで3,000億円と推定されています。でも、それは何年も前の話ですから、国庫負担金は全体の3分の1なので、自治体は残りの3分の2、全部で9,000億円になります。これだって少なく見積もっていると思います。それを誰がどうやって負担するのかという問題になります。

 最大の問題は教育財源をどうするかだ

橋本   国際比較しても日本の教育予算は極めて少ない。限られた予算の中でどう配分したらいいのか。私の意見は、はっきりしている。寄りの分を子どもたちに持っていく。これは政治的には非常に難しいです。しかしこれは、一気に変えないといけない。それは、政権交代したときが一番やれることです。だけど今そのことについて関心がなさそうな雰囲気です。

安西   この話は教育財源にたどり着くんです。教育財源を語るときには、社会保障財源からどのくらい持ってこられるかという話になります。今社会保障費は年間、一般会計で三十何兆円、文教予算は5兆円くらい。こういう状況です。政治家としては社会保障費を削れない。ここを思い切って突破する政治家に出てきてもらいたい。

社会保障財源といっても年金、医療、介護とありまして、少しずつ削るというのが現実的です。たとえば年間1兆円でも調達できれば、かなりいろいろなことができる。ただし、ただ予算をくっつけるんじゃなくて、合理的に何年か先のことを考えてやるべきことにお金をつけていくということをきちっとやらなきゃいけない。

いろいろなものを削ぎ取って、教育財源をきちっと今すぐ手当することは本当に大事だと思います。

橋本   教育改革は歴代の政権はいろいろ手がけてきたが、うまくいかなかった歴史があります。いま、教育臨調を立ち上げて取り組むという動きはあるのでしょうか。

松本   ないです。教育はサービス業になってしまっている現状から、親たちはサービスを受けている人という意識になっている限り臨調は生まれない。でも民間から声を上げていかない限りこれは変わらない。安西先生もおっしゃっているように、誰もちゃんとした責任者がいないわけです。文科省は常に官邸を見ている。人もどんどん内閣府に奪われている。国全体の予算を見たとき、たとえば防衛費をGDPで2パーセントにするといったとき、たとえばイージス艦一つ買ったとしても、イージス艦は勝手に自分で判断して動いてくれるわけじゃなく、そこには人がいなくちゃいけない。でも動かせる人はもういないかもしれないということを考えたら、イージス艦を買うのがいいとか悪いとかではなくて、他の予算を生かすために人に投資をしなければ、他の予算は一切生きないということをもう1回考えてもいい時期だと思います。

安西   文部科学省、教育委員会だけが考えているという状況なので、それと別に、民間が合理的な政策の立案の考え方をつくることが大事です。2030年に向けての学習指導要領を民間で案をつくるというのが提案であります。教員を増やさなきゃいけなければ、当然財源が必要です。自由裁量にしていくこととか、いろいろなことが入ってきます。それをやっぱり全体としてつくるということをお上に任せないで、民間の場で考える。その場をつくるということが非常に大事だと思います。

橋本   臨調といえば土光臨調があります。あれは政府がやったのですが、総合的、全体的に行政はどうなっているのか。民間臨調が一体教育のどこに問題があるのか。現場、無責任な体制、制度的なものという具合に実態を体系的に明らかにするという意味で非常に大事なところであるような気がします。いま、会場に元文科省事務次官の銭谷眞美さんのお顔が見えますの、銭谷さんから一言、コメントをいただけないでしょうか。

 「先生の数を増やす、先生の待遇を改善する」に尽きる

銭谷   私、3時過ぎからここへお邪魔して、後半のお話しか聞いていないのですが、若干感想だけお話しさせていただければと思います。今小学校で大変ご苦労をされているお話があったと思いますが、学校の先生についての見方がずいぶん変わったなと思いました。

昭和の時代までは、先生というのは、社会全体が大変尊敬されていたと思います。給与は非常に低いんですけれども、世の中の人から見たら、大変子どもの教育を担う重要な仕事をしておられるという意味で、尊敬されていたと思います。同時に、先生は時間があるなというのが昔の人の先生に対する見方だったと思います。

極端にいいますと、子どもが帰れば先生も家に帰る。夏休みも冬休みもある。先生はいい仕事だなあ、同時に社会的に非常に重要な仕事だなと思われていたと思います。ただ、給与は低いと思われていました。

当時は大変、教職員組合の勢力がありましたので、それに反する人たちから見ると、どうも先生にも問題はあるなという見方も一部はあったと思います。そういう時代に田中角栄さんが、先生の給与を思い切って引き上げたわけです。教員人材確保法という法律をつくり、昭和の終わりから平成に入り、世の中はものすごく変わりました。

先生の給与が他の公務員に比べて高い、いい仕事だというイメージがありまして、先生の人材不足ということはほとんどなかったんです。ところが、相対的に先生の人材確保法の効果が薄れてまいりまして、給与は今ほとんど変わらなくなった。それに加えて、先生に対する尊敬の念が下がってきたんじゃないかなという気がします。

子どもたちももちろん変わってまいりますから、先生の仕事はどんどん増えてきて、忙しくなってきているというのは間違いないと思います。今問題は、大変先生が忙しい。それから、先生の社会的な評価、あるいは待遇というものが、かつてほどではないということから、やっぱり先生に人材を得るためにどういう施策をすればいいかというのは、これはもう文部科学省にとっても、大変大きな課題の一つだと思っております。

一番いいのは先生の数を増やす、先生の待遇を改善する。先生以外のいろいろな仕事をする方を学校にお迎えをして、みんなで協力して校務をこなしていくという体制づくりをすることが必要なんじゃないか。文部科学省も、その方向で施策の展開を考えていると思います。

教育財政の確保は二つ目に大事なことだと思います。消費税率が上がったときに、私どもが思いましたのは、幼児教育の無償化に使ってもらえないかということを考えました。一種の福祉政策でもあるわけです。幼児教育については最近いろいろな改革がおこなわれ、無償化に近くはなってきてはいますけど、まだ十分ではないと思います。小学校教育の前の段階として、私は非常に大切なことではないかと思っております。
先生方の忙しさを私が担当局長だった平成18年に勤務実態調査をやりましたがそれまで40年間したことがなかった。その後、平成28年にまたやりました。先生方が忙しくなって、今のような評価になってきたのは意外と最近のことです。それが現場の声がやっぱり外によく通らなかったんじゃないかなと思います。

教育の内容の面でいいますと、私は今の小学校の学習指導要領というのはよくできていると思います。これは大体10年に1回、改訂してきました。2030年頃が次の改訂の時期になると思いますが、今の指導要領は、社会の変化に対応した教育内容にしなきゃいけないという側面と、そうはいいながら、本当に初等教育において変わらず必要な内容というのもあります。

 国語教育の重要性を認識するべきだ

変わらないものでは、国語教育、言語教育をしっかり学校でやるべきだと思います。小学校の時間数は、調べてもらえばわかりますけれども、低学年ですと国語の時間は7時間とか8時間あります。国語の教育はあらゆる教育の根底にあって、そのことがないと、子どもたちの思考力、判断力、表現力が育たないわけです。小学校教育ではどの先生にもやってもらわなきゃいけませんけど、そのことはしっかりやることが大事です。

それ以外の教科ももちろん大事ですし、道徳とか特別活動というのは日本独特の仕組みなんです。特別活動なんて概念自体は外国にはありません。そういうのももちろんしっかりやってもらえばいいと思います。何

橋本   ありがとうございました。小本先生、国語教育、英語教育。一番現場にいらしていて、みんな全部やらなきゃ駄目ですが、その中でもという視点でご発言をお願いします。

小本   国語力は全ての教科に反映されるので、評価制度も学校の中で見直しをされています。たとえばワークシートには、自分の考えを自分の言葉で書くというのは、英語であれ、体育のワークシートであれ、理科の実験の感想であれ、全てにやっぱり根源は国語力、思考力というものがあります。自分の考えや意思、目的がきちんと文章表現することは必要であると思っております。

橋本   今岸田総理は車座になって、いろいろな意見を聞くのをやっています。私は今日の話を聞いて、ぜひ小本先生のような、現場にいる先生から、車座で、今先生たちの置かれた現状がこうであるということをそういう機会を設けて、教育改革をやろうとするのを見せてほしいなと思いました。

安西   現場のご苦労が上のほうに伝わっていないという感じはあります。その場をつくっていくのが周りのやるべきことじゃないかと思います。2030年に学習指導要領が変わる。全国津々浦々の子どもたちが、一定のレベルの学びができるというのは、日本の義務教育政策にあるわけです。それがいま揺れ動いている。2030年改訂を見すえて、もうちょっと前から議論をしていかなきゃいけない。2030年じゃ遅いので、今から教育のあり方を議論し情報をきちっと得ていかないと間に合わないんじゃないかと思いました。

橋本   会場にいる黒川清さん、どうぞご発言をお願いします。

 デジタル時代をどう乗り越えるのか

黒川   デジタルとかグローバル時代と言っていますが、どちらかというとハウツーの議論になってしまう。初等教育をちょっと離れますが、高等教育の目的は一体なんなのか。たとえばハーバードとかケンブリッジを見ても、大体入学試験なんてあると思っているのか。ないですよ。

日本の教育というのは無意識かもしれないけど、初等教育から大学の入試を目指した教育になっているんじゃないのか。そこが一番問題じゃないかなと思っているんです。入試のための勉強に最終的にはなっているんじゃないかなという気がしています。

戦後日本は、それでうまくいっていたから問題にならなかった。しかしこの30年、経済が全然動かなくなり、偏差値の高い大学に入って勉強しても、しなくても、卒業させてくれるわけです。都市銀行や製造業の一流企業に就職する。年功序列で上がって、そこそこ出世する。退職金をどさっともらえた。なぜうまくいっていたか、もっと考えて分析したうえでグローバル、デジタルを語らないと、なんで日本は30年停滞しているのか正確には分からないと思います。

そういう発想で次の世代をどうやって育てるか。時間がかかりますが、そこは一番大事なんじゃないかなという気がします。

橋本   たしかにそうですね。今日は小学校の現場からそれをどう見て、どうしたらいいのかというのが中心でしたから。しかし、そのことは先ほどおっしゃったことと深く関わりがある話だから、本当は教育臨調でそういう大構でやるという必要はあるでしょう。松本さん、どう感じられましたか?

松本   まったくおっしゃるとおりです。偏差値教育です。私たち日本人自身がもう考えることをやめているのだなということを今のお話で再確認しました。偏差値というのは、ある一つの母集団の中での位置で、その成績がみんな正規分布、ヒトコブラクダのような形をしていないと偏差値は偏差値たり得ないんです。これが異常分布していたらこの偏差値って使えないんです。にもかかわらず、大学を選ぶときにこの偏差値を使う。

私立大学は半分以上はこの偏差値が使えるところで取っていない。にもかかわらず、偏差値で大学を選ぶ。国立大学だって、それ以外で入ってきている。つまり、私たち自身が昔の価値観にしがみついて、今というものを見ている。極めてうまくいっていた時代の眼鏡をかけて、近視眼的に見ている。そこをやめない限り、人材の流動性もないし、昨日と同じ今日でいい、今日と同じ明日が来るはずというところから一歩踏み出さない限り、明日は実は泥沼、落とし穴がある。

私たちの目はいつも後ろを向いて、古き良き時代を懐かしがっているから、落とし穴にあとは落ちるだけ。私なんか半世紀以上生きたからいいといえばいいのですが、これからの人たち、10代、20代の人たちには大変気の毒だと思います。

橋本  21世紀構想研究会の永野博さんどうぞ。

 日本の課題は教育問題だけではない

永野   今日のお話を聞いていると、この問題は教育問題だけじゃなくて、たぶん日本全体の問題だと思います。教育だけを変えようとしてもたぶんうまくいかない。他も同じ問題があるのです。そのように考えながら教育はここでやりましょうとか、そういう位置付けをちゃんとしたほうがうまく問題が考えられる。私はもう65年くらい前に小学校にいましたが、その頃の先生とまだ食事会を毎年している。やっぱり小学校の先生は大事だなと思っていますので、それを再認識しています。

橋本   ありがとうございます。私も非常に思い出に残るのは、先生が当直だと、子どもたちがみんな当直室に押しかけてくる。そこで先生は大体晩酌をやっている。要するに、外に出てはいけないと親に言われていても、学校の当直室に行くことは許されていたんです。もうなんと牧歌的でいい光景か。そういう懐かしさに浸っている場合じゃないんですけども。今の教育だけではなくて、もっと全体として考えるべきだというご意見でした。

安西   世界は本当に大きく変わっているので、それを教育界と共有しなきゃいけない。それがまったくできていないところに、私は非常に危機感があるんです。民間臨調と言っているのは、教育政策を民間で対案としてつくっていくということをやったらどうかということを申し上げている。

 学校と保護者の関係にも問題山積

中島と申します。 お時間いただきありがとうございます。民間企業に勤めておりますナカジマと申します。私から2点お伺いしたいことがございます。1点目が、教育の担い手という部分で、親の存在もあると思います。親を教育の有識者の皆さまはどういうふうに捉えているのか、どういうふうな変化があると捉えているのかというのをお伺いしたいです。

もう1点目が、先ほど安西さんが大学の教職課程が抜けているというような、見えてこないというようなお話があったかと思います。私自身、今年の3月まで大学で学んでいましたが、授業内容はとてもひどいものでした。

先ほど小本さんが授業の準備、すごく大変たくさんしているというお話がありましたが、大学は昨年の資料を使い回し、動画も使い回し。その動画40分見れば単位取得したことになる。小学校の教員の方々がこんなにも頑張って築き上げていただいたものが、その6年後になくなってしまう。4年間を過ごすのかという部分を、大学への他の教育ですね。中高、大学への教育のつながりというものが、今、私自身、今年まで学んでいて、見えてこないものがございました。そのつながりをどう捉えているのかを教えていただきたいです。

橋本   まず1点目の親の問題ですね。昔は大体、もう煮て食おうと焼いて食おうと文句を言わない。これ昔々の話ですけどね、そういう感じでした。今そうではない。文句を言う保護者について小本先生、現場ではどういう感じですか?

小本   これは実はとても言いやすいんです。というよりも、地域柄なのかもわからないのですが、これは本当に誇りなのですが、非常に恵まれた保護者といいますか、すごく協力してくださる保護者に恵まれました。今、世の中では、やれなんとかペアレンツだとか、やれクレームなんとかとか、いろいろな横文字がありますけども、どうもやはり先ほどのネガティブキャンペーンのように、学校に風当たりがすごい強い印象がイメージとしてあります。

でも実際中を開いてみれば、そうではないというのは、ちゃんと声を大にして言わなきゃいけないなと思います。たとえば30人いる中の教室で、1人、2人の保護者と衝突することは必ずあります。どんな企業であれ、そういったものはあると思うんです。それに対してリカバーできる教員のメンタル力というのが正直低下しているのは事実です。

保護者のほうも、実をいうと意見力というか、今SNSの時代ですので、やはり学校を飛び越えて、教育長であるとか、県とか、県知事とか、そういったところにすぐにアポイントを取って意見を反映することができるのです。それは教員にとってはウィークポイントであって、教員側の意見を反映するような場というものがすごい限られているんだなと思い、非常に肩身が狭いところであります。

自身の体験ですと、保護者の風当たりが強くなる部分もありますが、本当に安心材料として、非常に困ったときにはちょっと一緒に考えてくださいとか、場合によってはもっとうまくいくためにお子さんの力を貸してくださいとか、ちょっと根回しをさせてもらったり、そのようなコミュニケーション能力というものが、今後教員養成に必要なのかなと思っています。

橋本   地元の中学校の評議員をやっていたとき、いじめ問題がクローズアップされ、俺がいじめに遭った、どうしてくれるという親がいました。校長先生がおろおろしちゃう。またこれをマスコミで取り上げられたりしようものならとうろたえ、なんか対応しようとする。

それに対して私は、そんなの放っておけと言ったことがあります。しかし、学校の先生にしてみれば、やっぱり誠実に対応しないと、後でなんか言われると困るという雰囲気はないんでしょうか?

小本   保護者にももちろんあります。先ほど見抜くという言葉を使いましたが、最初担任発表からまず1週間、2週間は、保護者同士でいろいろと会話がなされると思う。始業式で子どもが、「誰々先生になったよ」というところで、わっといろいろ意見があると思うんです。やはりそこは教員の腕の見せどころです。最終的にいかに保護者と輪となって、一丸となってつくっていくかというのが大事です。親御さん、保護者をどう捉えていくかというところです。当事者感覚で、一緒に子どもの背中を押してもらわなきゃ困るところがあります。そこは協力者として捉えていかなきゃいけないと思っています。

橋本   模範的な答えでした。今安西先生、最後に大学の問題はどうでしょうか。

安西   今私の周りに限りますけれども、大学生の中でも、やはり自分で切り開いていこうという意思のある学生は、たとえば就職にしても、自分から選んでいく。必ずしも大企業に就職するとは限りません。起業する人たちも多いです。

大学のほうから多様性の意識を持ち、それぞれ自分の道をつくっていこうという感覚はちょっと出てきているような気はします。

むしろ、小学校から中学校、高等学校のところが、そういう学生たちを生み出していけるかという状況が出てくるように思います。それに対して教育委員会とか校長先生が、自分ではなかなか責任を持たず、下に押し付けてくるようなことがあればこれを取り払って、子どもたちが自由に自分の心を開いていけるようにしてあげることが本当に大事なことだと思います。それが今後の大学教育と、さっき言われたような接点になっていくはずなのです。

橋本   21世紀構想研究会の山本眞一先生、どうぞ。

 教師をサポートする体制が貧困だ

山本  大学退職教員の山本と申します。以前は若い頃に文部省に勤めていたことがありまして、いろいろ懐かしく思いながら聞かせていただきましたけども、今日の話の中で、時代に取り残されたというテーマでしたから、最後のほうではいろいろな話題が出てきて、教育内容から、システムから、いろいろ出てきたんですけども、最初のところで出てきたのは、教員にとっていかに小学校の職場というのが大変であるかというお話でしたよね。それは私も賛成いたしまして、私も霞が関に勤めていたときは、たしかに非常にブラックでございまして、一方で、小中の先生は夏休みがあっていいなと思っていましたけども、立場立場によってその判断は変わるものでございます。ところで、小学校の先生が大変忙しいのは、専門職、あるいは専門家であるべきところなのに、あらゆる仕事をやらなければならないところですよね、事務を含めて。小中学校の事務職員は一体どのくらいいるのかということで、私ちょっと専門分野の一つですので、調べたことがあるんですけれども、大体教員20人に対して、事務職員は1人くらいしかいないんです。ですから、各学校に配置される事務職員って、まあせいぜい1人か2人でしょう。そうすると、事務職員は本来の事務仕事でもう手いっぱいで、教員のサポートなんかとてもやってくれないということですね。高等学校になるとこれが10人に1人くらい。大学は大体教員3人に対して1人くらいですね、事務職員が。かなり恵まれているほうだと思いますけれども、それでも教員をサポートするには十分でない。ということを考えますと、教育にはお金が必要だということであれば、ぜひ教員の本来の仕事に専念できるように、事務職員、あるいはその他のサポートスタッフを、お金を投入して、ぜひ増やしていただきたい。せめて大学並みにしてはいかがであろうかと思うんですけどね。まあこれは財源の問題があるからそう簡単にはいかないけれども、しかし、教育に本当にお金が必要だということであれば、それはちょっと真剣に考えていただければありがたいなと思っております。以上です。

橋本   ありがとうございました。本当にそのとおりだと思いますが、小本先生、何かありますか? 

小本   事務職員の方々も、1年生から6年生の全保護者とか、人間関係とか、担任の先生の気質を把握するので精いっぱいだと思います。小学校教員はとくに授業ではなく、いわゆる雑務が最も肝心であったりします。休み時間の過ごし方であったり、子どもと人間関係を培っていくのは授業外の時間がとても必要です。こういうところに時間を割いていることをまず理解してほしいと思います。そのうえで、負担軽減になるのであれば、本当に歓迎させていただきます。

橋本   ここでパネルディスカッションを終了したいと思います。ありがとうございました。

 閉会挨拶 

政治の貧困が教育現場の困窮に結びついている

馬場   今日は大変盛りだくさんな、日本の教育現場の課題、それからそれをどうするかという政策提言。そういうことを、大変熱のある、立体的で非常に価値のあるシンポジウムを展開していただきまして、本当にありがとうございました。私が聴衆の一人として感じたのは、この日本の教育現場の疲弊・停滞。この最大というか、唯一といってもいいのですが、責任は誰にあるのかというと、政治です。今日も財源の問題が出ておりましたけれども、日本の政治の劣化が教育現場の劣化につながっているということをひしひしと感じました。

1960年代の後半から70年にかけて、日本では日教組という労働組合が大変な存在感がありました。また日本社会党を頂点とする野党勢力も大変存在感を持っておりました。日本社会党は、教員は労働者であるという観点から、教員の待遇改善を求めていまし。それに対し日本共産党は、教師聖職論であって、必ずしも労働の対価を待遇として求めるわけではないという、大変崇高な精神で政策を求めていきました。そういう政策を進めようということが、今この時代どこの政党もやっているようには見えません。選挙に向けた公約のお題目には、教育政策について書いてありますけれども熱がない。したがって、政治の貧困が今日の教育現場の貧困に結びついていったということを、私は確信しております。

自民党、公明党の与党はもちろん、野党の各政党も本気になって教育改革をやらなければ、日本はますます沈没していく。時代認識をしっかりと持って、社会の変化に立ち向かうということをやっていないのが、日本の政治の現場であると、このように感じました。財源の問題は、とくに政治が立ち向かっていかなければ解決できない問題ですから、それを大いに期待して、本日のシンポジウムの幕を閉じたいと思います。

21世紀構想研究会としては、この後に高等学校と大学教育を考えるシンポジウム。それから大学の研究現場、あるいは企業の研究現場を考えるシンポジウムというように、25周年記念としてシリーズの形で、このようなテーマに取り組んでいきたいと思います。ぜひ皆さんのご意見、ご支援をお願いいたしまして、本日の全プログラムを終わりたいと思います。ありがとうございました。

終了