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元ウクライナ大使が語るウクライナ戦争の深層(中)

2022/05/23

坂田   今日のウクライナ危機をどう考えるかです。事態の発端は、ウクライナがEUと結ぼうとしていた連合協定の署名作業の中断を当時親ロ派のヤヌコーヴィチ大統領が決めたことによります。連合協定というのは、EUとの政治、経済、社会、安全保障等の協力強化のための協定で、政治部分と経済部分があり、経済部分については自由貿易協定になっていて、この二つをきちんと結んで履行することが、将来のEU加盟のための重要な一歩ですが、これには賛否両論がありました。

ロシアはもちろん反対で、ロシア、ベラルーシ、カザフスタンの関税同盟に入れと主張しました。そのためウクライナは、オブザーバーとして参加することにしました。連合協定と関税同盟は両立しないからです。関税同盟は、ロシアが作りたいと思った経済的な協力枠組みで、この3カ国プラスアルメニアが入った結果として、ユーラシア経済連盟が翌2015年にできました。

更にロシアにはユーラシア共同体という構想があり、これはいわばロシアのEU版です。政治的、経済的な共同体をつくるということで、プーチンは旧ソ連の復活をしたい。彼は冷戦終了時の90年年頃は、ドレスデンのKGBのエージェントとして活躍していて、彼にとって20世紀最大の惨事というのは旧ソ連の崩壊であるといわれています。

いずれにしてもこの連合協定への署名作業が中断になってしまったので、市民の抗議運動が始まりました。

なぜヤヌコーヴィチ大統領が署名作業を中断したのかが翌月判明しました。それは、彼が12月17日にプーチンとモスクワで会談した結果、150億ドルの融資とガス価格の減額をオファーされ、結果署名作業を中断しろとなり、EU側に近づくことを一旦ペンディングにしたということです。

これに対して反対運動が非常に激しくなり、抗議運動が政権打倒運動に発展しました。さらに事態は混乱して、2月20日にキーウ中心部のマイダン広場で反政権派市民と衝突して、治安部隊の銃によって累積で100名あまりの死亡者がでました。

ここに至ってドイツ、フランス、ロシア、ポーランドが仲介に入り、ヤヌコーヴィチ大統領と野党3党首が、国家の進路に関する合意書を作りました。合意書の内容はスライドに書いてあるとおりで、年内に大統領選挙を実施して、新しい大統領を選ぶなどということでした。

ところが、その合意書ができた翌日にヤヌコーヴィチ大統領が行方不明になり、ロシアに逃亡したのがわかりました。大統領は議会から解任されて、2月27日に暫定政権が発足しました。この段階で親ロ派が消えて親欧米派の政権となります。ウクライナではマイダン革命、尊厳の革命といっています。

自由と民主主義の社会の構築を目指すことが、革命の大義だったわけです。これにプーチン大統領は大変な危機感を持ちました。同様なことがロシア国内やロシアの周辺国に波及することは、断じて阻止しなきゃいけないし、西側、特にアメリカが主導して地政学的な戦いを挑んでいるという考えも持ったんでしょう。

ロシアによるクリミア侵攻が新政権発足のちょうど2日前から始まって、空港や議会、セヴァストポリの港を占拠し、3月11日にはクリミア自治共和国最高会議で独立宣言がなされました。これも武力による強制下でおこなわれたと推察されます。

3月16日にはクリミアでの住民投票をやり、ロシアは85%がロシア編入に賛成したといっています。しかしクリミア住民のクリミアタタール人の代表が2014年の3月末の国連総会で述べたところによると、賛成票は32%だったということです。ウクライナでは憲法に規定で、国土の領域変更をするときには全国民の国民投票が必要なのですが、仮にこのクリミアでの投票が効果のあるものだとしても、それはクリミアだけですから、当然憲法違反になります。

憲法裁判所も、憲法違反との判決を出しました。しかしロシアは無視をして18日に編入条約の調印があり、アクショノフがクリミア自治共和国の首相として出てきましたが、クリミアの議会の100議席中、たった3人の議席の党のトップのアクショノフが、急に首相になっった。どういうプロセスだったのか不明です。そういったことが平気でおこなわれました。

クリミアのロシア編入というのは、国連憲章、国際法、ブダペスト覚書等の違反であって、とても認められないとして、G7の首脳は3月中だけで3回も容認しないという声明を出しました。

ブダペスト覚書というのは、1994年にイギリス、アメリカ、ウクライナ、ロシアで結ばれましたが、当時ウクライナに残っていた1260発の核ミサイルを全部ロシアに移送して、ウクライナはNPT(核不拡散条約)上、非核兵器国になる、その代わりウクライナの国家主権と領土一体性はちゃんと守るという条約でした。ロシアはそれをいとも簡単に破ったということです。3月27日には、国連総会でのウクライナの領土一体性の決議があり、対露制裁もこの月から始まりました。日本のウクライナ経済支援も、この年から数年の間に18億6000万ドルの資金援助をしています。日本政府は状況を見て、やるべきことをしっかりやったということがいえると思います。

東部の情勢ですが、4月6日に親ロ派武装集団が東部3州、ハルキフ、ドネツク、ルハンスクの行政府庁舎を占拠し、翌7日には、ドネツク人民共和国、8日にはルハンスク人民共和国を、彼らの自称として名乗っています。それぞれについて、プーチン大統領が国家承認したのが、今年の2月21日ですから、8年経って承認しました。

この承認行為というのは、完全なミンスク合意違反です。しかし、ウクライナ政府は、クリミアのロシア併合がなすすべもなくやられてしまったという反省があって、4月の中旬から反テロ作戦ということで、軍事的に東部の親ロシア派への攻撃を開始しました。

17日にはジュネーブ宣言が、米、EU、ロシア、ウクライナ間でこの頃できて、停戦とか、OSCE(欧州安全保障協力機構)が状況鎮静化を監視するとかいろいろ決めましたが、肝心の停戦が実現せず、ジュネーブ条約は実行されませんでした。

大統領選挙が5月にあり、ポロシェンコが当選しました。親欧米派の候補者の得票率は85パーセントに上り、大半の国民が欧米化路線を支持しました。ウクライナ危機が始まる前は、欧米支持派の世論は約45%くらいでしたが、85%に増えたということが国民の一つの意思だと言えます。

その後、東部紛争の政治的解決の模索が始まり、まずG7サミットでロシアが排除されました。次に仏主催のノルマンディ上陸70周年記念式典があり、フランスのオランド大統領とドイツのメルケル首相の仲介で、ウクライナ・ロシア首脳会談が初めておこなわれました。署名を前の年に中断した連合協定については7カ月遅れで署名ができ、この結果ウクライナは、欧州統合化路線に一歩踏み込んだということです。

戦闘が7月、8月、非常に激しくなり、複雑化した状況を表したのがマレーシア航空機のミサイル撃墜でした。17日のことで、この日は当時の岸田外相がキーウ訪問の2日目で一連の会談と行事を終えて空港からお帰りになろうとする時でした。空港でお見送りするため待機していると、当時のウクライナの駐日大使が私のところに来て、これはブークというミサイルで、ロシアが撃ったということを耳打ちしてくれました。そこまで具体的ではありませんが、翌年10月にオランダの航空安全委員会が出した正式の報告書によれば、飛行機はミサイルによって撃ち落とされ、そのミサイルは親ロ派が占拠している地域から撃たれたということをいっています。

9月初めのポロシェンコ大統領のNATO首脳会議への出席と、同大統領等による8月末のロシア、ベラルーシ、カザフスタンの3首脳との会合を経て、9月5日にミンスク合意Ⅰができ、停戦、重火器の撤収等々が決まりましたが、これも結局実行されませんでした。その間も、ウクライナ世論の親欧米化は加速し、連合協定を9月に批准し、これはウクライナとEUとの間を結びつける、極めて重要な協定になったということです。

批准がなされた結果、古い議会構成を変えることとなり、10月に最高会議450人の選挙がありました。このときも親欧米派の得票率は80%を超えていますので、ポロシェンコ大統領が選挙で選ばれたときと同じくらいの率で、国民の欧米路線支持が明確になったということです。

選挙の結果、親欧米派5党による連立内閣ができ、議席は憲法改正に必要な3分の2を超えて、2015年1月1日、NATOの加盟を可能とする法律ができました。中立ではなく、非中立化が可能となりました。クリミアやドンバスの状況を見ると、ウクライナが中立というのは安全保障上良くないという判断をポロシェンコ大統領のほうでも理解したということです。

第2次ミンスク合意がその後できます。年が明けて東部の戦闘状態が、ロシア軍の支援を受けた親ロ派と、ウクライナ軍との間で急激に悪化して、欧州に飛び火するという危機感が増大し、メルケル首相とオランド大統領が慌ててウクライナのポロシェンコ、ロシアのプーチンと会談しました。それを受けて、ベラルーシのミンスクで、4者によるノルマンディ首脳会談がおこなわれました。

つづく

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